チャイコフスキーの七番目の交響曲というと、あゝあの無番の標題音楽「マンフレッド交響曲」のことか、と早合点される向きもあろうが、ここで俎上に載せるのは正真正銘、番号附きの
交響曲第七番のことである。まさかそんなものが、と云う勿れ。ちゃあんとオーマンディ指揮で正規盤LPも出ている(
→これ)。
このアルバムに関しては三年ほど前の叔母の死に際し、ちょっと拙文で触れたことがある。彼女からの貰いものだったからだ(
→「形見のアルバム」)。頂戴したのは多分1971年ぢゃなかろうか。見知らぬ作品の世界初録音の存在を知り些か昂奮した。悪くないぞ、なかなか面白い曲ぢゃないかと思ったりもした。
改めて聴き直すのも一興だろう。たまたま手許には再発盤CDもあることだし。
チャイコフスキー:
交響曲 第七番(ボガトゥイリョフ編)
ロココ主題に拠る変奏曲*
ユージン・オーマンディ指揮
フィラデルフィア管弦楽団
チェロ/レナード・ローズ*
1962年3月11日、11月15日*、フィラデルフィア
Sony Masterworks Portrait MPK 46453 (1990)
Sony (Japan) SICC 1208 (2009)
ちょっとチャイコフスキーの詳しい人ならば聴き出すとすぐに気付くだろう。なんぢゃこりゃあ! 晩年のピアノ協奏曲第三番と殆ど同じ曲ぢゃないか、と。
それもその筈、チャイコフスキーは1890年、第五交響曲と第六交響曲「悲愴」の間に、もうひとつ別の交響曲を構想し、途中までスケッチを書きかけたところで難渋し筆を絶った。彼は一旦はこの交響曲を破棄しようとしたが思い留まり、同じ素材から第一楽章(アレグロ・ブリランテ)のみをフランスの名ピアニスト、ルイ・ディエメールを独奏者に想定したピアノ協奏曲に仕立て直した(1893年10月3日完成)。その直後ペテルブルクで作曲家の指揮により「悲愴」交響曲が初演(10月16日)されるが、作曲家はほどなく謎の急死を遂げた(10月25日/日附は旧暦)。
そこから先は故人の与かり知らぬ成り行きなのだが、上述の単一楽章の協奏曲は門人セルゲイ・タネーエフにより纏められ、1894年ユルゲンソンから「
ピアノ協奏曲第三番」作品75(「悲愴」の次の作品番号)として歿後出版された。タネーエフは更に残りの交響曲スケッチの緩徐楽章と終楽章にも手を加え、1897年ベリャエフから遺作「
アンダンテとフィナーレ」作品79として刊行した。
このような経緯を知らされると誰しも思い到るだろう。もしも二種類の遺作「アレグロ・ブリランテ」作品75と「アンダンテとフィナーレ」作品79を続けざまに奏したなら、三楽章からなる「ピアノ協奏曲第三番」の「本来そうあるべき」完成形がかなり彷彿とするのではないか。
更に想像を逞しくするなら、漠然ながら姿を現す第三協奏曲の原形(プロトタイプ)と、チャイコフスキーが遺した交響曲スケッチ群とを綿密に附き合わせれば、中途で放棄された「第七」交響曲の当初の構想すら復元的に再構成できはすまいか、と。
とはいうものの、云うは易く行うは難し。実際にこの作業に携わったソ連の音楽学者
セミョーン・ボガトゥイリョフ Семён Семёнович Богатырёв (1890-1960) は1951年から55年まで、五年もの歳月を費やしたのだから。
とりわけ彼は第三楽章「スケルツォ」の復元に苦しんだとおぼしい。元になる交響曲スケッチ群のなかでこの部分が最も不分明だったし、タネーエフの携わった二曲のピアノ協奏曲(作品75+79)にも含まれていないからだ。そもそもチャイコフスキーの原=交響曲プランが当初から四楽章構成だったか否かすら不確かなのだ。とにかくボガトゥイリョフはチャイコフスキーの同時期のピアノ曲集「十八の小品」作品72の第十曲 "Scherzo-Fantaisie" が交響曲のスケルツォ楽章の名残であるとの仮説に基づき、なんとかこの難関を切り抜けたのである。
(まだ聴きかけ)