所用が早く済んだので高田馬場でロバート・アルトマン二本立でもと思ったが、こんな春日和に暗闇で四時間半は勿体ない気がして方針変更、早稲田で地下鉄を降り、例に拠って「
キッチンオトボケ」にて早目の昼食。ここのミックスフライ定食ライス大盛が平然と完食できるうちはまだ老人の仲間入りは果たせまい。
さあてと、腹も膨れたことだし、散歩がてらに歩きませんか。して何処へ?
先ずは「演博」。二階の一室の小展示「
逍遙書簡展」を暫し拝見。昔の人はとにかく筆まめ、しかも達筆だ。悲しいかな殆ど判読できない。書簡の宛先は島村抱月、東儀鉄笛、伊原青々園、三田村鳶魚など所縁の人物が名を連ねるが、そのなかに大田黒重五郎の名を発見して驚く。実業家の彼は外国語学校で二葉亭長谷川辰之助と同級だった縁で、その歿後「二葉亭四迷全集」刊行に尽力した。逍遙からの手紙もその印税の遺族への支払の件でのやりとりのようだ。
ここは二十分位で観てしまうと階段を上る。三階の廊下に展観中の「
つかこうへいの70年代」をしみじみ眺めわたす。殆どのポスターに見憶えがある。当然だろう、同時代の東京を存分に呼吸したのだから。とりわけ青山にあったVAN99HALL(座席数九十九の小スペース)で1975年にやった「つかこうへい全作品集」と題する連続公演は思い出深い。なにしろたった九十九円の木戸銭で芝居を観せちまったのだから。いやはや、あの頃《ストリッパー物語》の根岸とし江に夢中になったっけ。翌76年には新宿・紀伊國屋ホールに進出し(ここでは「七〇〇円劇場」)、あれよあれよという間につか人気が沸騰した。ボッティチェッリを模した(!)和田誠の《改訂版 ストリッパー物語》ポスターが懐かしい。その時分の見聞は二年前つかの訃報に触れて追悼文に綴ったことがあった(
→「つかこうへい死す」)。
しばし懐旧の想いに浸ったが、往時を知らぬ世代にあの時代の狂騒を伝えるのは至難の業。なにしろ70年代のつか劇団の動く映像が殆ど残っていないのだ。ポスターや雑誌記事を主にした今回の展示はどうにも隔靴掻痒の弊を免れない。良好な舞台写真を並べるなど方法はあった筈だ。伝える意志なしには過去は蘇えらない。
三十数年前に思いを馳せたまま演博を後にし、喫喫場所でしばし一服。そのあと道を挟んだ早稲田大学総合学術情報センター(要するに中央図書館のある建物ですな)二階の小部屋で「
バロン・サツマが来たァ!」という企画展示を観る。「バロン・サツマ」こと薩摩治郎八関連資料が遺族から寄贈されたのを記念した催しだという。
薩摩のような途轍もない巨人の生涯を回顧するのにこの小空間は全く相応しくない。今回の展示は彼の破天荒極まる蕩尽人生のほんの一欠片、上澄みを更に濾した残滓といった塩梅だ。観たから何かが会得できるような有益な代物ぢゃない。とはいうものの、1925年の仏人洋琴家アンリー・ヂルマルシェックスの来日公演資料のような稀少な遺品が観られるとあっては足を運ばぬ訳にはいかない。
展示資料の多くは1999年に横浜のそごう美術館での展覧会で目にしたし、いくつかは架蔵もするので新味には乏しいが、さすが薩摩自身の遺品とあってやはり唯一無二の価値を有する。渡英時の外国人登録証明書(1920)やら私的な写真アルバム類やら自叙伝の草稿やら、いろいろ興味を惹く品々があるにはあるが、ただ展示ケースに鎮座するに留まり、付け加わった新知見は皆無なのがいささか情けない。これらの資料がこのまま死蔵される(実によくある話だ!)ことなく、広く学内外の研究者に供され真摯な研究対象となるよう切望する。
そのあとは大学の近傍で名残りの花見でもと彷徨い出たら、早稲田通りをほんの少し入ったところに「
オペラ・バフ OPERA BUFF」なる看板を見つけ、ふらふら足を向けた。「オペラ、歌曲、演劇の古書と中古CDの店」なのだという。知らなかったなあ、こんな酔狂な店が早稲田にあるなんて。維納や倫敦ならいざ知らず。
(まだ書きかけ)