炬燵に入っていると昔を懐かしむ感情がどっとこみ上げ、四十二年前に想いを馳せる。上京して初めてフレデリック・ディーリアスのLPを手にした日のことを。
《デリアス/管弦楽名曲集》
A面)
■ 交響詩「丘を越えてはるかに」
■ 交響詩「ブリッグの定期市」(イングランド狂詩曲)
B面)
■ 夜明け前の歌(小管弦楽のための音詩)
■ 春告げる郭公(小管弦楽のための音詩)
■ 川の上の夏の夜(小管弦楽のための音詩)
■ マルシュ・カプリス
■ そり乗り(冬の夜)
トーマス・ビーチャム指揮
ロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団
東芝音楽工業 AA-8533 (1969年8月1日発売)
秋葉原の石丸電気のレコード売場であれこれ思い迷う必要はなかった。その時点でディーリアス(当時の表記は上記のように「デリアス」)のLPといえばこれ一枚きり出ていなかったからだ。1970年7月24日のことである。
本当は2月19日にTVで観たケン・ラッセル監督作品《夏の歌 Song of Summer》にゆかりの同題曲が聴きたかったのだが、簡単には見つからない。そもそもトマス・ビーチャム卿は晩年のディーリアス作品を何故か一向に録音しなかったのである。やっと聴けた本盤はどちらかというと若書き中心のラインナップだったから正直なところ拍子抜けした。冒頭の「丘を越えて遙かに」や「ブリッグ・フェア」も、ちょっと聴いただけではなんだか捉えどころのない印象だった。「春に郭公の初音を聴いて」や「川の夏の夜」は確かにチャーミングば佳曲だったが、どうせなら「楽園への歩み」を聴きたかった。尤もビーチャムは残念ながらこの曲のステレオ録音を残していない。
若い頃からディーリアス最大の擁護者をもって任じていたビーチャム卿には生涯にわたり膨大なディーリアス録音があるが、晩年のステレオ時代LP三枚分のセッションを行った。そのうち生前に発売許可が出た二枚のLPから抜粋したのが、上記のアンソロジー・アルバムである。そこに歿後に出た「日没の歌」を加えたのが、ビーチャムによるディーリアスの全ステレオ録音。そのすべてがCDで聴ける。
《ディーリアス名演集 I/丘を越えて遙かに》
ディーリアス:
交響詩「丘を越えて遙かに」──幻想序曲*
そり乗り(冬の夜)**
ブリッグの定期市──イギリス狂詩曲***
「フロリダ」組曲(ビーチャム編)****
マルシュ・カプリス***
サー・トーマス・ビーチャム指揮
ロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団
1957年4月2日、10月7日*、1956年11月5日**、10月31日***、
1956年11月10、19、21、22日、12月14日****、
ロンドン、アビー・ロード・ステュディオズ
東芝EMI CE33-5248 (1989)
《ディーリアス名演集 II/日没の歌》
ディーリアス:
ダンス・ラプソディー 第二番*
夏の夕べ(ビーチャム編)**
春初めてのかっこうを聞いて**
河の上の夏の夜***
夜明け前の歌* ****
歌劇『フェニモアとゲルダ』間奏曲****
歌劇『イルメリン』前奏曲**
日没の歌*****
サー・トーマス・ビーチャム指揮
ロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団
コントラルト/モーリーン・フォレスター*****
バリトン/ジョン・キャメロン*****
ビーチャム合唱協会*****
1956年11月7日*、10月31日**、1957年3月28日***、
1956年11月5日****、1957年4月1日*****、
ロンドン、アビー・ロード・ステュディオズ
東芝EMI CE33-5249 (1989)
ビーチャム卿がステレオで遺したディーリアス録音は以上ですべて。セッションは1956年晩秋(10月末~)と翌57年春の二回に分け集中的に組まれている。合唱入りの大曲「日没の歌」は僅か一日で収録されたものの、ビーチャム翁の意に沿わずにお蔵入り(そういう例は多かった)。歿後かなり経って陽の目を見たものだ。
通して聴いてみると改めて痛感するのは、ビーチャムのディーリアスに対する屈託のないアプローチ。一見すると無造作にさらりと流すのだが、それでいてどんな細部にも馥郁たる情緒が漂うところが絶品。融通無碍、ノンシャランなようでいて、精妙なニュアンスに富んでいる。まるで自作自演さながら闊達で生命力に溢れ、自在な音楽の運びに聴き惚れてしまう。どの曲も素晴らしくいい。とりわけ「ブリッグ・フェア」はまるで魔法だ。「フロリダ」組曲のようなやや散漫な若書きもビーチャムの手にかかると稀代の名曲のように聴こえる。天下一品とはこのことだろう。
ご当人は不本意な出来だったという「日没の歌」も、一体全体どこがお気に召さなかったのか。自ら初演のタクトをとっただけのことはある、自信と共感と愛着に裏打ちされた空前の名演なのである。
幸いなことに、これらのCDは今でも同じ曲順の輸入盤二枚組でたやすく手に入る(EMI "20th Century Classics")。ディーリアンなら必携のアルバム。