忘れぬうちに昨日の旅について書いておこう。
夜通し高速道路を走ったバスは予定より早く七時半に神戸の三宮に到着。
日曜早朝とあって人影の途絶えた街を少し散策。戦災と震災によく耐えた古い洋館がそこここに残る旧居留地を抜け、横浜と同じ名称をもつ元町界隈へ。ここの中華街は昔ながらの
南京町という古風な名称を留めている(港も
メリケン波止場だ)。横浜と似通った雰囲気だが、長方形の街区は遙かに小ぢんまりしていて、むしろ倫敦のソーホー地区に似ている。いずれ再訪してじっくり歩いてみたい場所だ。
一時間ほど過ごしたあとJR元町駅へ。構内の「IL BAR」という小さな店でモーニングを註文。トースト二枚と茹卵、サラダがついて三百八十円。居心地のよい空間で珈琲の味も上乗。眠気に喝を入れる。なにより全席喫煙可というのが嬉しい。
九時近くなったので各駅停車の列車に乗る。休日の朝だから乗客はまばら。途中で芦屋を通過するとき懐かしさと共に「ああもう降りることもないなあ」という苦い感慨が浮かぶ。尼崎駅で福知山線(表示は宝塚線となっていたが同じもの)に乗り換えると四つ目が目指す伊丹。全く知らない駅に降り立つ。
空港の所在地という以外に予備知識も何もない伊丹だが、江戸時代から清酒醸造で財をなした土地柄だといい、今なお酒蔵の町並が残る。その一郭に市立美術館があったので入ってみる。19世紀フランス版画の収集で知られる館なので常設展に期待したのだが、その種の作品は出ておらず覇気も工夫の欠片もない展示に失望し早々に退出。全くもって腹立たしい。金返せである。
時計を見るとまだ十時半。まだ時間はたっぷりある。近傍の重要文化財
旧岡田家住宅という建物(
→これ)にふらり入ると、これが裏に酒蔵を備えた江戸時代の堂々たる構えの町屋である。なんでも現存する日本最古の酒蔵だそうで、奥には明治期に改造されたという煉瓦造の竃や、醪(もろみ)を絞る酒搾り場の太い柱がそのまま残る遺構はまことに圧巻。これが無料で見学できるのだから機嫌もよくなる。
そのあと近傍の
猪名野(いなの)
神社に参って中世の土塁の名残を見学したり、阪急の伊丹駅(こちらが市街の中心らしい)周辺の商店街をうろついたら俄かに空腹を覚えた。再び酒蔵の風致地区に舞い戻ると、さっき通りすがり気になっていた古い木造の蔵(
→これ)に人だかりがしている。
白雪ブルワリービレッジレストラン長寿蔵という。地元の酒蔵「小西酒造」のアンテナ・レストランとおぼしい。ちょうど十一時半の開店時刻だし他に心当たりもないから迷うことなく入店。
貧乏旅行なので最も安価なランチ・メニューを怖々註文するが、ここは名にし負う酒蔵レストラン、品書きにずらり並ぶ銘酒に抗しきれず、地麦酒四種を試飲できるという「テイスティングセット」を思わず追加註文。本当は日本酒を所望したいが、次の予定を慮ると酩酊は禁物なのだ。早速に供された四色の麦酒に喉を潤す(
→これ)。ううむ絶品だ、どれも旨い。やがて供されたスペアリブの麦酒煮込も美味しい。
いかんいかん、真昼間からすっかり赤ら顔だ。レストラン附属の売店で土産の甘酒と奈良漬を手にすると足元も覚束ぬまま目指す
伊丹アイフォニックホールに辿り着く。まずは座席指定券を手に入れ、酔い醒ましに近辺を暫し散策。公園のベンチで文庫本を繙く。顔は火照っているものの眠気は襲ってこない。いやはや。
今日こんな遠方までやってきたのは関西を根城にするバロック・オペラの上演団体 Vivava Opera Company の第十七回公演を観る目的からだ。ここで世にも珍しい演目が舞台にかかる。どのくらい珍しいのかといえば、このオペラを見聞した者は四百年間で誰一人いない。譜面が公刊されぬまま永く忘却の淵に沈んでいたのである。専門家すら耳にしたことのない幻の歌劇の蘇演という快挙が世界に先駆けて伊丹の地でなされる。この機を逸すべからず。だから遙々ここへ来た。
二時半開場。会場はかなり急勾配の客席で五百人収容という。ただし舞台は奥行を欠いて狭々しく、幕もプロセニアムもない多目的ホールはどう贔屓目に見てもオペラ公演には不向きなのではと心配になる。
五列目中央の自席に早々と着座。手渡されたチラシとプログラムを熟読する。
まずはチラシの口上を引こう。
今も私たちを魅了してやまないヴェネツィア。17世紀のこの都市は「最も静謐な国(La Serenissima)」と賛美されたヴェネツィア共和国の首都としての栄華を誇ると共に、1637年世界で始めてオペラ劇場をオープンさせたオペラのメッカとしても君臨していました。
現在でもよく上演されるモンテヴェルディのオペラ《ウリッセの帰還》や《ポッペアの戴冠》もヴェネツィアで初演されています。巨匠モンテヴェルディ亡き後、その弟子カヴァッリが台頭しますが、今回VOCが上演する《ロードペとダミーラの運命》の作曲者ツィアーニは、モンテヴェルディ、カヴァッリに次ぐいわば「第三の男」として高い名声を誇った人物です。ツィアーニの作品の中でも特に《ロードペ…》は傑作に数えられ、当時としては珍しく初演の後、イタリアの数都市に「輸出」され、合計十数回に渡って再演されています。
《ロードペ…》は、《ポッペアの戴冠》でオッタヴィア役を初演した名ソプラノ、アンナ・レンジのために特別に書き下ろされたものですが、その人気の秘密は、リアリティのある粗筋にもあったのでしょう。お話は古代エジプトを舞台とし、愛妾ロードペを寵愛するあまり女王ダミーラ暗殺を企てたクレオンテ王とロードペの前に、クレオンテの魔の手を逃れ、村娘に身を偽ったダミーラが現れたために巻き起こる騒動を主筋としていますが、主要人物だけでなく、ダミーラの養父母、小姓、宮廷の官吏、ロードペの愛人たちなど脇役もいきいきと描かれ、感情移入のしやすい魅力あるドラマとなっています。
ツィアーニの音楽は、それ以前のオペラに比べ「語る部分(レチタティーヴォ)」ではなく「歌う部分(アリア)」に大きな比重をおいており、「歌唱によるドラマ」というオペラのその後の定義に大きく貢献するものになっています。
17世紀以降、上演記録が全く無かったこのオペラは、今回が世界現代初演となります。どうぞご期待下さい。
バロック・オペラにまるで疎い小生がこの上演のことを知らされたのは倫敦在住の気鋭の音楽学者
松本直美さんからのメールである。彼女はイタリア各地の図書館に秘蔵される台本と写譜を研究照合してこの知られざるオペラの校訂譜を作成した。今回の蘇演を可能にしたのは松本さんの粘り強い労苦の賜物なのである。
プログラム冊子に寄せた彼女の文章からも引く。
《ロードペ…》の作曲を担当したピエトロ・アンドレア・ツィアーニ(1616?~1684)は1657年当時ヴェネツィアの聖マルコ教会の聖歌隊員であったが、1669年にはモンテヴェルディの一番弟子、カヴァッリの後を継いで同教会の第一オルガン奏者に抜擢されるほどの力量があった。特にオペラ作曲家としての名声は高く、モンテヴェルディ亡き後のヴェネツィアのオペラ界はカヴァッリとツィアーニに二分されたと言っても過言ではあるまい。[…] 《ロードペ…》はツィアーニのオペラの中で初期の作品に属するものの、すでにアリアとレチタティーヴォの明確な分離がなされており、そのアリアの流麗な美しさはまさしく当時の聴衆が待ち望んだものであったと考察される。そしてこの作品はアンナ・レンジというプリマドンナを得て大成功をおさめ、当時としては珍しくイタリア各都市で10数回に渡って再演されるほどの評価を得たのである。
なるほど、モンテヴェルディの衣鉢を継ぐオペラ第二世代の作品というわけか。
17世紀にかくも華々しい評判をとった《ロードペ…》が現在まで省みられなかったのはひとえに「現代譜がなかった」ことに起因する。17世紀のオペラはすでに紛失したものも数多いのだが、幸い紛失を免れたものでも手稿譜の形で私たちに伝えられている。しかし現在の記譜法とは規則を異にする手稿譜をそのまま演奏に使用することはできない。現在世界の主要劇場のレパートリーとして定着しているモンテヴェルディの《ポッペア…》も、ゴールドシュミット(1904)、ダンディ(1908)、マリピエロ(1908)、ベンヴェヌーティ(1937)、ゲーディ(1953)、レッパード(1966)、カーティス(1989)らによる改訂楽譜出版を経て幅広い受容が可能になったのである。今回の校訂にあたり作業はまずイタリア各地の図書館から現存する全ての史料(印刷台本12本、手稿譜4本)を収集することから始まった。そしてそれらの差異、類似を比較し、学術的決定をもって一つの楽譜の形にしたのである。[…]
なんと気の遠くなるほどに地道な作業だろう。だがそれ抜きにはわれわれが享受するバロック音楽は一音たりとも鳴らないのである。音楽学者って偉い。
三時きっかりに開演。記念すべき本公演のスタッフ、キャストを記しておこう。
Vivava Opera Company vol. 17
2011年10月2日(日)
伊丹アイフォニックホール
15:00~
オペラ《ロードペとダミーラの運命》全三幕
Opera "Le Fortune di Rodope e Damira"
作曲/ピエトロ・アンドレア・ツィアーニ Pietro Andrea Ziani
台本/アウレリオ・アウレーリ Aurelio Aureli
楽譜校訂&アーティスティック・アドヴァイザー/松本直美
指揮・演出・製作/大森地塩
出演/*役柄の ( ) 内は1657年ヴェネツィア初演時の歌手名
ロードペ=クレオンテの愛妾 Rodope (Anna Maria Volea)/松岡万希
ダミーラ=エジプト王妃、村娘フィダルバとも Damira (Anna Renzi)/端山梨奈
クレオンテ=エジプト王 Creonte (Giacinto Zucchi)/萩原次己
ニグラーネ=臣下、ロードペの恋人 Nigrane (Carlo Macchiati)/福島紀子
ブレンノ=臣下、ロードペの元恋人 Brenno (Filippo Manini)/山田愛子
レリーノ=ロードペ付の小姓 Lerino (Carlo Manelli)/古瀬まきを
シカンドロ=臣下 Sicandro (Raffaele Caccialupi)/松原友
バート=村人 Bato (Antonio Draghi)/藤村匡人
ネリーナ=バートの妻 Nerina (Pietro Cefalo)/橋爪万里子
歓喜の化身ディレット/萩原次己
欲望の化身ラシーヴィア/古瀬まきを
婚礼の化身イメネーオ/山田愛子
女神ジュノーネ/福島紀子
演奏/
ヴァイオリン/嵯峨野庸子、伊佐治道生
チェロ/上塚憲一
コントラバス/田中寿代
リュート/高本一郎
チェンバロ/森裕
上演時間は二回の幕間休憩を挟んで四時間十五分。世界初蘇演と喧伝されるに相応しい堂々たる通し狂言である。何分バロック・オペラに不案内な小生故ここからの文章は頼りない感想文の域を出ないものとご承知おき願いたい。
まずもって驚かされるのは、台本と音楽が錯綜した人物関係をよく咀嚼してオペラ全体を「人間関係のドラマ」として形象化している一事である。冒頭にまず寓意像たる神々が登場し前口上を歌うが、これは《ポッペアの戴冠》同様に当時のオペラのいわばお約束で、それ以降は終始一貫して生身の人間のドラマ、すなわちクレオンテ王、愛妾ロードペ、捨てられた王妃ダミーラが象る三角関係、それを取り巻く宮廷人士たち、そしてダミーラの養父母が綾なす感情と思惑と行動の相互作用のみで物語は進展する。モンテヴェルディが最後に辿り着いた境地に学びながら、次世代のツィアーニとアウレーリは更にその先を目指したことが明らかである。
このロードペとダミーラの愛憎劇には何か下敷きになった史実や先行する文学作品があるのだろうか。王に疎まれナイル河に流されたダミーラが救い手により養育されるという筋書は旧約聖書のモーセの逸話との類似を窺わせるのだが…。それは兎も角、このオペラの主要な人物造型には先行する《ポッペア…》の影が色濃い。
持ち前の色香でクレオンテ王の心を虜にし妃位を狙う愛妾
ロードペが「略奪愛」の権化ポッペアと瓜二つの妹であることは誰の目にも明らかだ。ただし愛欲の対象は国王のみならず、臣下のニグラーテ、ブレンノにまで及ぶのだから、彼女はポッペア以上に恋多き存在である。手練手管を弄して男たちを巧みに操るその性悪な遣り口は殆どヴァンプの域に達していよう。
これに対峙する王妃
ダミーラは《ポッペア…》のオッタヴィアさながら忍従する王妃である。理不尽な運命を呪いつつ復讐の念に身を焦がす有様は双子のようだ。それもその筈、彼女の役柄は初代オッタヴィアを演じた歌手レンツィのため「宛て書き」されたというのだから、両者の類似は単なる偶然ではないのだろう。とはいえ平民の娘に身をやつして正体を隠しつつ、王への愛と憎しみの間で揺れ動くダミーラの内面はオッタヴィアのそれを遙かに上回る複雑さを秘めている。
古代の作中人物ながら艶かしく「近代的」なヒロインふたりを、17世紀のオペラ作者たちは持てる能力のすべてを駆使して生き生きと造型した。その懸命な努力は四百五十年後のわれわれの胸をもしたたかに打つ。ここには確かに生身の恋する女たちが息づいているからである。
これら両者が切々と心情を吐露するアリアはどれも美しい。ツィアーニは小生には未知の作曲家だが、その旋律発明力には並々ならぬ創意と意欲が感じられる。大先輩モンテヴェルディの高貴な天才には及ばぬながら、一筋縄ではいかないシチュエーションに置かれた者の複雑な内面を歌に託すべく努めている。今後このうち何曲かが必ずやソプラノ歌手たちのレパートリーに加わることだろう。
国王
クレオンテもまた愛すべき存在だ。《ポッペア…》の皇帝ネローネが悪虐非道な暴君(まあ史実なのだが)なのに対し、こちらは愛する女性ふたりの間で行き迷い逡巡する等身大の「悩める君主」である。周囲の者たちの度重なる裏切りや離反をも寛大に処遇する。だからといってお人好しの馬鹿殿にはみえないのは、台本作家アウレーリの周到な筆の賜物だろうか。宮廷内に先妻の遺影肖像画を掲げながら、王自らその影に怯えるというヒッチコックの《レベッカ》さながらの挿話も面白い。
他のオペラとの比較で興味深いのはフィダルバ(実は王妃ダミーラ)が狂気を装って周囲の者たちを欺き翻弄する場面の存在だ。松本さんのプログラム解説に拠れば、《ポッペア…》とほぼ同時期のバロック・オペラ《偽の狂女》(サクラーティ作曲)に既に同様の設定があり、これまた同じ上述のレンツィが主役を演じたのだという。いずれにせよ、ヒロインが狂気に憑かれる(もしくはそう振る舞う)場面こそは歌手の声楽的な技巧と演技力が試される最大の見せ場であり、《ロードペ…》においてもこの場でのダミーラの歌唱には控え目ながらそれらしい書法が施されている。ダミーラの役柄が実在のプリマの力量に如何に多くを負うていたかの証であろう。
同時にここに遙か後代の19世紀におけるベルカント・オペラ(《清教徒》《夢遊病の女》《ラマームアのルチア》など)で繰り返される「狂って歌う」ヒロインたちの祖型をみる思いがする。逸早くイタリア・オペラという「賽」は投げられたのだ。
忘れずに付け加えておくと、このオペラでは脇役にもいろいろ味わいがある。臣下ながら王の愛人ロードペに横恋慕する
ニグラーネと
ブレンノの恋敵がドラマを錯綜させるのだが、このライヴァルたちは性格描写が不足気味で対比的な面白さを醸すには今一歩の感があって惜しい。そこが書けたらダ・ポンテ顔負けだろうが。
とりわけ秀逸なのはロードペに仕える宮廷のお小姓
レリーノの役どころだ。本物の恋に憧れる少年はあちこちに登場しては大人たちの恋路を観察し、訳知り顔に忠告したり、ダミーラに淡い思慕を抱いたりと神出鬼没の存在である。
つまりレリーノは百数十年後のケルビーノや、二百年後のオスカルの大先輩なのである。黎明期のオペラが既にモーツァルトやヴェルディの作中人物を胚胎しているかのような不思議さにちょっと眩暈がする。
…とまあ、思い出すまま書き連ねると際限がなくなる。四世紀ぶりの復活上演はかくも刺激的だったし、四時間を超す長丁場が息つく暇もなく過ぎゆく思いがした。
これだけ意義深い体験ができたからそれで満足なのだが演奏についても一言。
この団体はもう十年も活動し、知られざるヘンデルの歌劇の本邦初演に尽力している由。今回の公演は更にその先を行く野心的な企てである。何しろ四百年以上も埋もれていた作品なので誰ひとり耳にしたことがなく、当然のことながら参照すべき先行上演や録音も皆無。文字どおり手探りの暗中模索から始めてここまで漕ぎ着けたのだから凄いものだ。その意欲と成果は大いに偉とすべきだろう。
歌い手の力量には誰の耳にも明らかな優劣があったが、こうした小ぶりな歌劇団の場合どうしても避けられない現象だろう。それでもロードペとレリーノを歌ったご両人は力量も度胸も備わっていて、役をよく咀嚼し、手応えある実在感を醸していた。肝腎のダミーラ役が声も演技も些か弱く、バランスを欠いたキャストとなったのが惜しいが、後半ではかなり持ち直していた。
ともあれ四時間もの長丁場をよくぞ大過なく乗り切ったものだ。流石に終幕は誰もが疲弊し息切れして、歌詞が覚束なくひやりとする瞬間が幾度もあったが、まあそれも致し方あるまい。なにしろ「新作初演」同然なのだから。この企てが今回限りに終わらず、より練れた再演・再々演へと繋がることを希望してやまない。
ひとつ苦言を呈するならば、恐らく予算上の都合からか、舞台装置が全面的に省かれ、すべての設定を横長の大きな和紙製スクリーンにイラストレーションで投影する方式が採られていたが、思うにこれこそ諸悪の根源ではないか。
イラストの巧拙はひとまず措く(それも看過できないが)。なによりも、只でさえ手狭な舞台の中央に大きな映写幕が常に居坐るのが視覚的にも演劇上もひどく目障りである。舞台での動きはどうしても横方向に限定され、しかも歌手たちはしばしばイラストに従属して振る舞うため、演技も歌唱も矮小化して絵空事になりがちで、オペラ全体がよく云えば活人画、悪くすると幼稚な紙芝居に堕してしまう。試みに目を閉じて音楽だけに耳を傾けると断然いい。伴奏の古楽アンサンブルも安定しているし、声楽の水準だって悪くないのだ。このまま目を開けずにいたくなる。
この団体はいつもこのやり方で公演するのだろうか? 幼稚園の遊戯会や学芸会なら兎も角、プロフェッショナルな上演でこれは通用すまい。絵解きすれば充分という発想は明らかに観客の想像力を甘く見ている。どんな形でもいいから舞台空間そのものを生かした創造的な演出を心掛けるべし。簡素な装置と光と歌手の身体でなんとでもなるのではないか。そもそもこの会場は明らかにオペラには不向きなのだが、それを逆手に取るような創意工夫が必須なのだ。さもないとオペラは確実に死ぬ。
同カンパニーは当演目による海外公演の夢も抱いているとも仄聞する。その意気やよし。ただし現状のまま渡英すれば結果はもう目に見えていよう。
オペラは大人の演劇である。総合芸術なのだ。歌唱力の向上は勿論だが、舞台上で生起するすべての要素が結び合ってドラマは真実となる。この日の上演はそこに到るささやかな第一歩に過ぎないのだ。
終演時刻は予定を更に上回って七時十五分を回っていた。外は既に夜の帳が下り真っ暗だ。人影も疎らな伊丹の旧市街をJRの駅まで戻ると、朝の往路をそのまま逆向きに辿って尼崎経由で三宮駅まで取って返す。
帰りの夜行バスの集合時刻まではまだ間があるので屋根の懸かったアーケード街をあてどなく歩く。何か関西らしい夜食はないものか、明石焼の店でもあれば…と捜し歩くうちに
南京町界隈まで来てしまった。もう八時を大きく回っていたが、それでもランチ定食を安価で供する店があったのが幸いだった。味はまあ普通。
そのあと徒歩で三宮まで取って返し、辛うじて開いていた珈琲チェーン店で閉店まで時間潰し。読みかけの翻訳小説を開くが疲弊していて筋が追えない。一両日中に書かねばならぬ原稿の下準備の材料にざっと目を通すが、これまたサッパリ頭に入らない。もはや精も根も尽き果てたのだ。
閉店時刻の十時になったので店を出て所定の集合場所「花時計」前に赴く。既に乗車を待つ大勢の若者たちが所在なく屯している。ここで今日最後の一服。
やがて点呼があって指定されたバスに乗り込むと疲労と睡魔がどっと襲いかかる。定刻の十時半きっかりに夜行バスは緩やかに動き出した。程無く消灯。暗闇のなか長かった一日を反芻しようと目を閉じたところで意識を失った。