(承前)
そんな次第で布團に横たはりつゝ秋の夜長(何時しかさういふ季節になつた)に耳を傾けたくなる樂曲はと云へば矢張り大バッハに如くは無からう。ならば永きに渉る我が愛惜の一枚を是非とも。
"Glenn Gould: Bach Peludes, Fughettas and Fugues"
バッハ:
六つの小前奏曲 BWV933~938
前奏曲とフゲッタ ニ短調 BWV899
前奏曲 ト長調 BWV902-1
前奏曲 ト長調 BWV902-1a
フゲッタ ト長調 BWV902-2
九つの小前奏曲 より BWV924, 927, 926, 925, 928, 930
前奏曲とフーガ イ短調 BWV895
前奏曲とフゲッタ ホ短調 BWV900
ピアノ/グレン・グールド
1979年10月10、11日、1980年1月20、2月2日、
トロント、イートンズ・オーディトリアム
ソニー・ミュージック SICC 658 (1980/2007)
今にして思ふとこのアルバム録音の時點で
グレン・グールドには殘りあと三年の歳月しか猶豫がない。そうした中でハイドン撰集やブラームスの小品集、シュトラウスのソナタ、そして「ゴルトベルク變奏曲」デジタル再録音を果たして卒然と去つた。1982年10月4日。訃報が届いたのが(日本時間の)翌5日、奇しくも我が三十歳の誕生日の當日だつたので忘れやうにも忘れられない。
このアルバム(當時は勿論LPだつた)を初めて手に取つて眺めたとき、グールドの何やら疲弊したやうにも達觀したやうにも見える無表情と、廢屋さながらガランとした空虛なビルの一室でわざわざ冩眞に收まつた計り知れないその心境を慮つたものである(
→これ)。飾り氣の無いこれら裸形の音樂を虛心にただ聽くべしといふ彼からのメッセージなのだらうか、と。
奏されるのは概ね一、二分にも満たぬ指馴らしの練習用小品に過ぎないのだが、グールドが彈くとどの曲もバッハの個性が紛れもなく刻印された小宇宙さながら。威厳ある確固とした存在感が顕わになる。一旦このアルバムを聽き出すと息もつかせぬ展開に惹き込まれてもう止める事が出來ない。愛すべきミニアチュールの中に深い沈潜や慰撫、時には底知れぬ深淵を垣間見る思ひすらする。
座右に置いて生涯ずつと聽き續けていくであらう不朽の一枚。