夕食後に仮眠してしまったので、なんとなく寝つけぬままふと訪れた秀逸な音楽ブログの記事(
→これ)から
フィービ・スノウの訃報を知らされる。亡くなったのは4月26日のことらしい。昨年初め脳卒中で倒れてからずっと昏睡状態だったのだという。
もう長いこと彼女の歌を聴いていない。だから追悼する資格などないのだが、デビュー当時のフィービには些か心惹かれていた。シンガー=ソングライター全盛期の1970年代前半に登場し、その名前を冠したアルバム "
Phoebe Snow" で脚光を浴びた。白地に彼女の横顔の輪郭があっさりと描かれた簡潔なデザイン(
→これ)だったが、日本盤では収録曲に因んで「サンフランシスコ・ベイ・ブルース」なる別題が付され、ご丁寧にもジャケット下部に金門橋の写真までインサートされていた(
→これ)。帯の惹句に曰く「ブルースの妖精 フィービ・スノウ」。
このアルバムに出逢ったのは発売から一年を経た1975年のこと。いつものように隣町のライブスポット「
荻窪ロフト」にしけこみ、ウィスキーと焼うどんで所在なく過ごす真夜中だったに違いない。達者に爪弾くギターの低音に導かれて唄い出すその特徴的な声にいきなり惹き込まれた(
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1. Good Times (Let the Good Times Roll)
2. Harpo's Blues
3. Poetry Man
4. Either or Both
5. San Francisco Bay Blues
6. I Don't Want the Night to End
7. Take Your Children Home
8. It Must Be Sunday
9. No Show Tonight なんという個性的な声だろう。こぶしの利いた、と表現したくなる独特の唄い回し。不思議なヴィブラートは森進一も真っ青。しかも上から下まで過不足なく出て、高音のファルセットもたいそう魅力的。「ブルースの妖精」なるキャッチフレーズや、冒頭の「
よき時代」や(わが国での)アルバム表題曲からはなんとなくブルーズっぽさが連想されるが、実はこの二曲のみ他作(前者がサム・クック、後者がJesse Fuller)で、しかも元歌とはまるで別物のジャジーな趣、むしろ彼女自身の創作に近い。
他の曲は悉く彼女の自作自演。とりわけ(昔のLPでは)B面の劈頭を飾る「
夜を終わらせたくない」がひどく心に沁みる曲で、これを聴く度に痺れたものだ(
→これ)。なにしろ不思議な詞で、「ねえ母さん/瓦斯燈の傍に佇んで私は泣く/汚れた街の霧が心深くに沁み入って/私をしきりに駆り立てる/チャーリー・パーカーが死んだと人は云う/だから私は夜を終わらせたくない」(概略そんな意味だろうか)と歌われる。そのあと今度は「父さん」に向かって「私の半生は地下鉄のホームで待ち続け/残りの半生は哀れな道化として費やした」としみじみ諦念を籠めて述懐。
A面二曲目の「
ハーポのブルーズ」も味わい深い曲だ(
→これ)。自らの行く末を「柳になって風にそよぎたい」「恋する人になって虚飾を捨て去りたい」「山になって雲間から聳えたい」「柔和なリフレインになって聴き手の心に届きたい」とさまざまに思い描いた挙句、「心ならずも大人になって/辛い人生を耐え忍ぶほかない」と締め括る。いかにも静穏で平明な旋律なのに、歌詞は苦い失望の予感で満たされている。これが二十代前半の女性の歌なのか。因みにハーポとは彼女を音楽へと導いたジャズマン Charlie Harpo なる恩人。フィービのデビューを目前に亡くなったそうだ。
このアルバムでは錚々たるジャズメンによる絶妙なサポートが聴きものである。とりわけ
テディ・ウィルソンのピアノ、
ズート・シムズのサックス、
スティーヴ・ガッドのドラムズ。曲によっては
デイヴ・メイソンまでがギターで参加している。云い漏らしていたが、全曲で目の醒めるようなアクースティック・ギターを爪弾くのはフィービ・スノウ自身である(十代の頃の彼女は生のジミ・ヘンドリクスを聴いて「私もああなりたい」と猛特訓に励んだ由)。
これと次のアルバム "
Second Childhood"(1976) の二枚は当時の小生が愛してやまないフェイヴァリット盤だった。なんというか、ひっそりと深夜ひとりで聴くのに相応しい「
夜の音楽」なのである。そう思えてしまうのは、これらを初めて耳にしたのが夜更けの「荻窪ロフト」だったためだろうか。
その後のフィービのキャリアはパッとしない。後続アルバムはどれも気の抜けたような出来で正直云って失望した。最初に圧倒された「唯一無二」のオーラは後退し、口当たりのよい普通のシンガー=ソングライターと変わりがない。1989年に来日し、高田馬場のパナソニック・グローブ座で公演した折りも、「実演はこんなものなのか」とちょっと落胆した。それからもう彼女のことを思い出すことは滅多になくなった。
今になって振り返ればその蔭に無理からぬ事情があった。結婚して授かった娘さんが重度の脳障害を患い、その介護に忙殺され彼女の演奏活動には長いブランクが生じていた。それでも十数枚のアルバムを残したのは天晴れである。2007年には最愛の娘にも先立たれ、うちひしがれながらも歌を捨てなかったというフィービ。そうした矢先、突然の発作が彼女を襲ったのである。亨年六十。ずっと小生と同じ1952年生まれと憶えていた彼女の本当の生年はどうやら1950年だったらしい。
Vita brevis, ars lunga. 本人が去っても音楽は残る。心から冥福を祈りたい。