夜は雨になるとの予報どおり、夕方から霙混じりの雨模様になり、やがて本格的な雪になった。東京を出るとき既に街路はうっすら白くなっていたが、一時間半ほどかけて辿り着いた千葉ではもう一面の銀世界。しかも降り止む気配はない。このまま間断なく降り積もったら明日はどうなるのだろう。
芯まで冷え切った体を温めつつ
パーシー・グレインジャーを聴く。今宵はその第三夜目。いよいよピアノ音楽である。
腕自慢のヴィルトゥオーゾ・ピアニストとして名声を博していたグレインジャーなので、自奏用のピアノ独奏曲が数多く書かれたのは理の当然であろう。もっとも長大な楽曲は殆どなく(というか皆無であろう)、専ら二分から数分程度のアンコール用の小品か、小品を連ねた組曲形式のピアノ曲がその大部分を占める。民謡に基づいた曲が多いのは他のジャンルと同様であるが、バッハ、フォーレ、チャイコフスキー、R・シュトラウス、ディーリアス、ガーシュウィンらによる(グレインジャー自身にとっての)鍾愛の楽曲に基づくピアノ用編曲も少なくない。
自らの妙技を披歴するという動機ゆえ、それらの楽曲はしばしば技巧的に至難である。耳で聴くと易しそうに思える楽曲も、両手の絡み合いが一筋縄でいかなかったり、小節毎に複雑な表情指示が記されていたり、いろいろと仕掛けがあって、細部まで正確に弾きこなすのは容易ではないらしいのだ。
そのような事情から、グレインジャーのピアノ曲の録音といえば、作曲者に匹敵する途轍もないテクニックを備えた名うての技巧家が名を連ねる。
マルカンドレ・アムラン然り、
マーティン・ジョーンズ然り。豪州出身でグレインジャーのスペシャリストとして名高い
レズリー・ハワードもそのひとりだ。
だがしかし、それらの演奏に一抹の虚しさを覚えてしまうのもまた事実である。無いものねだりで申し訳ないのだが、どんなに超絶技巧を凝らしても、その背後に内在するパッションが希薄な演奏では、グレインジャーの神髄を伝えきれない。
目覚ましい技巧を具備したうえで、これ見よがしに披瀝せず、いともさり気なく、そこはかとない詩情や含羞を漂わせながら繊細に奏でられるピアニスト。理想に叶ったグレインジャーを聴かせるための条件は厳しいのだ。
私見を述べさせていただくなら、当代のグレインジャー弾きで
ペネロピ・スウェイツ Penelope Thwaites 女史の右に出る者はいない。そう確信する。
"Percy Grainger: Chosen Gems for Piano”
グレインジャー:
愛の力 ~「デンマーク民謡組曲」
ナイチンゲールと二人の姉妹 ~「デンマーク民謡組曲」
ユトランド民謡メドレー ~「デンマーク民謡組曲」
私のジョンよ、もう一日
騎士と羊飼いの娘
ウッドストック・タウンの近くで
カントリー・ガーデンズ
サセックスの旅役者のクリスマス・キャロル
シェパーズ・ヘイ!
北欧の王女へ
一目惚れ (エラ・グレインジャー曲、ロナルド・スティーヴンソン編)
子供のマーチ: 丘を越えて遙かに
婚礼のララバイ
ストランド街のヘンデル
コロニアル・ソング
ネル (フォーレ曲、グレインジャー編)
チャイコフスキーの花のワルツにもとづくパラフレーズ
おお、今こそ別れねばならぬ (ダウランド曲、グレインジャー編)
ピアノ/ペネロピ・スウェイツ
1992年2月6、7日、ハムステッド、ロスリン・ヒル礼拝堂
Unicorn-Kanchana DKP(CD)9127 (1992)
スウェイツ女史は英国生まれだが、メルボルン大学の音楽学部で学んだ。自らオペラの作曲まで手掛ける才媛である。ヴァーサタイルなピアニストとして1976年からグレインジャーをレパートリーに加え、世界各地で(「スコットランドの僻地スカイ島から遠く北京まで」とCDにある)彼の音楽の紹介に努めている。
2001年からは Chandos レーベルのためグレインジャーのピアノ独奏曲を三枚のアルバムに仕上げており、そちらこそ決定盤と看做すべきだろうが、今日はこの旧演奏を推す。演奏の質も選曲の妙も申し分ないからだ。
騙されたと思ってこれを聴いてご覧なさい。今は Regis という再発売専門のレーベルから廉価で手に入る筈。アルバム・タイトルは昔と同じである。