大寝坊してテレヴィジョンを点けると、共に風貌のよく似た中年(と云ふか初老)二人がラヴェルのピアノ協奏曲で共演してゐる。
なんとも奇遇である。つひ先日、所用で吉祥寺に赴いた歸り、ふと立ち寄つた中古音盤店でマルグリット・ロン女史の遺著『
ラヴェル──回想のピアノ』を(嘘のやうな安價で)手に取つたからだ。彼女はこの協奏曲の初演者にして被献呈者だから、當然此の曲のことも懐かしく追憶される。久し振りに聽いてみたいなと思つた矢先だつたのである。ロンの囘想には彼女ならでは知り得ない興味深い事實が綴られ、何よりもラヴェルへの篤い敬慕と愛惜の情に溢れてゐる。今の今迄ずつと讀む機會を逸してゐた我が怠慢を深く恥じた次第である。
昨夜は寢床に入つて英國から届いた許りの月刊音樂誌 "BBC Music" を讀み耽つて了つた。
ジャクリーヌ・デュ・プレが表紙だといふので樂しみにしてゐた特輯だつたのだが、"Jacqueline du Pré: a genius remembered" なるカヴァー・ストーリーは全く讀み甲斐の無い記事で、親族が書いた暴露的傳記(及び其の映畫化)を難ずる内容に專ら終始。有名なエルガーの協奏曲録音(バルビローリ卿と共演したもの)のスケルツォ樂章が無編集の一發録りだつたといふ件りのみが新味だつた。要するに藝術家の評傳には彼や彼女の至藝に對する洞察と思慕の念が不可缺だといふ丈の話である。
引き續いて同じ號の雑誌から、珍しくも
パーシー・グレインジャーの記事を讀む。今年が歿後五十年だからであらう。此の作曲家をずつと得意にしてゐるピアニストの
ペネロピ・スウェイツ女史の筆に成るもの。流石にこちらは愛情と理解とに貫かれた水際立つ紹介である。矢張りかうぢやなくちやね。
さうかうするうち受像機の畫面では先の演奏會の續きで
ショスタコーヴィチの第八交響曲をやつてゐる。痛苦と愁嘆場の獨白が延々と絶へ間ない晦澁な大曲は成程傑作かも知れないが何度聽いても苦手である。