どこか郊外の美術館に赴きたい、それも県外の、という家人の所望に応えるべく電車を乗り継いで出掛ける。今日も五月晴れの続き。爽やかな海風が吹く好日。
平塚市美術館は縁遠い場所だ。この前に出向いたのは1999年、堀内誠一の展覧会の折りだったのではないか。平塚駅からの道順もすっかり忘れてしまったので今回は路線バスに頼る。
この美術館のHPは頗る不親切。「4番乗り場から──美術館入口で下車」とあるが、どこ行きのバスに乗ればいいのか、肝腎の情報を書き洩らしている。駅にもバス乗り場にも説明は一切なし。お役所仕事の典型だ。来てほしくないのかなあ。
今日この美術館を訪れたのは「
平明・静謐・孤高──長谷川潾二郎展」を観るため。先日NHK・TVで特集されたせいか、会場はご婦人方で思いのほか混み合っている。カタログは完売だし、チラシも疾うになくなっている。
(口上)
長谷川潾二郎(はせがわりんじろう 1904~1988)は、戦前から戦後にかけて長く制作を続け、独自の写実表現を開拓しました。いわゆる画壇的な世界には属さず、美術の流行にも超然たる態度をとり、結果として日本の近代美術史上極めて特異な位置を占めています。納得いくまで観察しないと描かない寡作ぶり、時流に媚びない孤高ともいえる制作態度、江戸川乱歩にも称賛された探偵小説作家としての一面、恵まれた家庭環境(父・淑夫はジャーナリストの先駆け、兄・海太郎は人気作家、弟二人は文学者)など、画家を取り巻くエピソードにも事欠きません。
公立美術館初の回顧展となる本展は、初期から晩年の作品により、再評価の機運が高まる作家の全貌をご紹介します。
国際都市・函館に育まれた
長谷川四兄弟は頗る気になる存在だ。
若くして運試しに渡米した長男・海太郎は谷譲次・林不忘・牧逸馬の三つの筆名を使い分け流行作家として活躍するが過労の果てに早世した。
次男が潾二郎、今回の展覧会の主役である。三男の濬(しゅん)はロシア語に堪能で満洲に渡りバイコフの小説『偉大なる王(ワン)』を翻訳、戦後は通訳業の傍ら人知れず黙々と詩作を続けた。四男の長谷川四郎については説明を要しないだろう。ただしその文学的業績については褒貶相半ばする。
かつて長谷川潾二郎の存在を教えて下さったのは宮城県美術館の西村勇晴さん(現・北九州市立美術館館長)だ。たまたま別件で訪れた小生をわざわざ常設展示の一隅に誘い、「
ほら、この猫いいでしょ?」と作品の前に立たせた。
その仙台の《猫》(1966
→これ)は本展でもポスターやカタログの表紙を飾る別格扱い。久しぶりの再会である。これを生涯のハイライトに、今回は個人蔵を多く含む百二十八点もの作品が一堂に会している。知られざる潾二郎の全貌を捉えるのに充分な潤沢さだ。
こうして六十数年の画業を通覧してつくづく思うのは潾二郎の徹底した「狭さ」である。それは同時代の美術動向の一切に背を向け、ひたすら絵肌の彫琢のみを目指す画家としての姿勢の「狭さ」であり、世界を一隅として断片的に捉えようとする視野と視角の際立った「狭さ」であり、なんの変哲もない事物にばかり異常な偏愛を示す主題選択の「狭さ」でもある。
実際、潾二郎はいつも同じようなものばかり飽かず描き続けた。風景であれば常に門と塀(
→これ、
→これ)、そして雑木林の一郭。静物であれば硝子の花瓶に挿した薔薇の切り花、身辺にある食器と食材(
→これ)。意外にも、猫のポートレートは上記の晩年作と、若い頃の《猫と毛糸》(1930
→これ)の二作きりだ。
人は潾二郎の仕事の驚くべき入念さ、徹底した写実をこぞって称賛するが、そうだろうか。これが本当に写実なのだろうか。
云ってみれば彼は「見ること」の袋小路に踏み迷って進退窮まったのだ。彼はどこにも行き着かない。徹底した写実を標榜し同様の道を歩んだかにみえる
岸田劉生は同じように林檎や食器を凝視しつつ「
其処に在るてふ事の不思議さよ」と呟いたが、潾二郎の「写実」は実のところ劉生のそれとはまるで別物なのではないか。
(まだ書きかけ)