1月29日。今日は
フレデリック・ディーリアスの百五十回目の誕生日。この日を祝ってサウスバンクで記念演奏会が催される。永年に亙るディーリアンとしてはこの機を逃すべからず。千里の道をものともせず英京まで駆けつけたのは、ほかでもない、この催しのためだったのである。
これまでの人生を思い返すとディーリアスのアニヴァーサリー・イヤー(記念年)は生誕百年の1962年、歿後五十年の1984年の二度あった。ただし前者はまだ十歳で音楽を知らなかったし、後者は生活に追われ外遊どころではなかった。歿後五十年祭に参加された三浦淳史さんの報告記事を羨ましく読むのが関の山。まるで縁がなかったのだ。2012年はやっと逢着した「三度目の正直」なのである。
昼食を済ませ徒歩でサウスバンクに到着。まずは売店でCDを物色し、"Essential Delius" という二枚組を購入。EMIの過去音源アンソロジーだが、記念日当日なので思わず手に取ってしまう。ロビーをしばらくぶらついていたら開演時間が近づいてきた。心して席に着く。
"Delius 150th Anniversary"
Royal Festival Hall
29 January
15:00-
ヴォーン・ウィリアムズ:
揚雲雀*
ディーリアス:
チェロ協奏曲**
ブリッグ・フェア
エルガー:
謎の変奏曲
ヴァイオリン/ジョルト=ティハメール・ヴィゾンタイ*
チェロ/ジュリアン・ロイド・ウェッバー**
アンドルー・デイヴィス卿指揮
フィルハーモニア管弦楽団(まだ書きかけ)
1月28日。今日は午後ずっとサウスバンクに居続けてプロコフィエフに身も心もどっぷり浸りきった。こんな体験はこれまでの人生で一度もなかったことだ。倫敦まで遥々やってきた甲斐があるというものだ。
14:00-17:45
"The Unknown Prokofiev"
Function Room, Level 5 of the Royal Festival Hall最新の知見を交えながら欧米のプロコフィエフ研究者が発表し、討論するスタディ・デイ(研究会)。登壇者は昨夜もプーシキン・ハウスで発表したサイモン・モリソン、ネリー・クラヴェツ、キャリル・エマーソンの各氏に加え、プロコフィエフ財団の面々や、プロコフィエフの実孫で作曲家のゲイブリエル・プロコフィエフなど。
話題は「プロコフィエフはなぜ1936年に帰国したのか」「プロコフィエフにおけるロシア性とは?」などの根本命題に始まり、今日このあと世界初演される『
イワン雷帝』オラトリオ新版や、タイーロフの劇団のための舞台音楽『
エジプトの夜』についての詳しい解説など、微に入り細を穿った内容である。小生の聞き取り能力には限りがあり、どこまで理解できたか心許ないが、裨益するところが甚大だったことは確実。参加できてよかった。
18:00-18:45
FREE Pre-concert
Performance by musicians from the Royal Collage of Music
Royal Festival Hall
プロコフィエフ:
弦楽四重奏曲 第二番
Silver Quartet: Amy Tress, Joseph Devalle, Natasha Silver,
Frida Waaler Waervaagen
四本のバスーンのためのユモレスク
Benjamin Exell, Carrie To, Tamsin Thorn, Susanne Simma
二挺のヴァイオリンのためのソナタ
Galya Bisengalieva, Agata Darashkaite(まだ書きかけ)
1月27日。一泊してエディンバラを辞去、昼過ぎに列車で昨日のルートを倫敦へ向け逆戻りする。車窓から望む英国風景はどこまでも単調でなだらか、左手には北海の水平線、右手には平坦な草地と畑が広がるばかり、峨々たる山脈なぞ影も形もない。冬もなお青々とした牧場で羊たちが静かに草を食む。
ところが中間地点のヨーク駅を過ぎたあたりから、奇怪な円筒形をしたコンクリート造の構造物群が繰り返し遠望される。間違いなくあれは原子力発電施設だ。美しく長閑な田園風景にあまりにも場違いな、あまりにも禍々しい眺めに背筋が凍りつく。嗚呼、麗しの大英帝国よ、お前もなのか!
倫敦キングズ・クロス駅に到着したのは夕刻六時。一旦わが宿に戻って旅装を解くのももどかしく、直ちにバスに飛び乗ってブルームズベリーの「プーシキン・ハウス」に馳せ参じる。今宵もここでプロコフィエフがらみのイヴェントがある。息せき切って扉を開けると、大丈夫、ぎりぎりだが間に合った!
Pushkin House
27 January 2012
19:30-
"Unexpected Discovery: a Prokofiev Premiere"
On the eve of the premiere at the Royal Festival Hall given by the
London Philharmonic Orchestra, international experts gather at
Pushkin House to discuss the upcoming event: the new, unknown
1961 version of Sergei Prokofiev’s oratorio Ivan the Terrible by
Levon Atovmyan, the discovery of its manuscript and the story
behind its creation.
Participants:
Nelly Kravetz (Tel-Aviv University),
Simon Morrison (Princeton University),
Caryl Emerson (Princeton University),
Alexander Ivashkin (Goldsmith College, University of London)
and Serguei Prokofieff Jr., the composer’s grandson (Paris).
Musical contributions by pianists Sergei Dreznin (Paris)
and Elena Krakopolskaya (Toronto).
Moderator: Alison Smale (International Herald Tribune)明日(28日)ロイヤル・フェスティヴァル・ホールで世界初演されるプロコフィエフの映画音楽《
イワン雷帝》のオラトリオ新版(レヴォン・アトヴミャン編曲)に関するトーク・イヴェントである。会場には欧米各地のプロコフィエフ研究者が集まり、狭い会場は挨拶と歓談で喧しいほど。小生も旧知の数人に挨拶したり、昨日のエディンバラ公演のプログラムを進呈したり。咄嗟に英語が口をついて出ず往生する。
(まだ書きかけ)
1月26日。エディンバラに来ている。倫敦から列車で五時間弱かけて辿り着いたスコットランドの都。流石に空気が冷たい。札幌か小樽といったところか。
初めての都会なので勝手が皆目わからず、地図でスコッティッシュ・ナショナル・ギャラリーという美術館を見つけて訪ねると、ティツィアーノやベラスケスの逸品がさりげなく飾ってあって吃驚した。
夜は目抜き通りにあるフェスティヴァル・シアターでお目当ての観劇。スコティッシュ・オペラによるプロコフィエフの『
修道院での結婚 Betrothal in a Monastery』の新プロダクション初日である。
英語上演ということもあって、隅々までよく台詞が理解できたし、心ゆくまで愉しめた。歌手たちの芸達者ぶり、役づくりの見事さには驚くばかり、ウェルメイド・プレイを観る面白さなのだ。オペラは極上の娯楽なのだと思い知らされる。
それにしてもプロコフィエフの偉大さよ。スターリン粛清の直後、第二次大戦下の劣悪な環境下で、この反時代的とすら思えるコケティッシュな恋愛劇に絶妙な音楽を纏わせた不屈の精神力に感服せずにはいられない。
1月25日。暗くなると自室で軽く夕食を摂ってから出発。ゆっくり歩いても数分後にはサウスバンクのロイヤル・フェスティヴァル・ホールに着いてしまう。この呆気ないほどの近さが今回の宿の最大の魅力だろう。テームズ河畔で煙草をくゆらせ、いざ今宵もプロコフィエフ三昧だ。
"Prokofiev: Man of the people?"
25 Jamuary 2012
19:30-
Royal Festival Hall
プロコフィエフ:
バレエ音楽『道化師』(抜粋)
ピアノ協奏曲 第四番(左手のための)*
バレエ音楽『シンデレラ』(抜粋)
ピアノ/リオン・フライシャー*
ヴラジーミル・ユロフスキー指揮
ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団(まだ書きかけ)
1月24日。生憎の雨降りだが予定どおり郊外の大学図書館に赴いて根をつめて勉強。五時間ぶっ続けで資料と格闘したら流石に眩暈がした。午後遅くバスで都心に戻り、自室でシャワーを浴び心身を休める。夕刻に再び外出、雨はもう完全に降りやんでいた。雨上がりの舗道に街の灯が映えて美しい。
向かった先はホーボン駅から徒歩で数分、大英博物館に近いブルームズベリー界隈にひっそり佇む「
プーシキン・ハウス Pushkin House」という未知の建物だ。ここはロシア文化の啓蒙普及を目的とする文化施設らしく、小さな建物の二階がささやかなサロンになっていて、ここで講演会や演奏会がたびたび催されているらしい。
今日の催しのことは週刊情報誌 "TimeOut" の頁を繰っていてたまたま知った。「プロコフィエフ・フェスティヴァル」に関連して、この場所で彼の歌曲の夕べがあるというのだ。この稀有な機会を逃すべからず。定員七十名ほどの半ば私的な催事だったのだが、幸いにも残席があった。
"The Soul of Prokofiev"
Tuesday 24 January 2012
Pushkin House
Sergei Prokofiev:
3 Songs from "Five Poems by Anna Akhmatova" op. 27
■ Sunlight Streaming in the Chamber
■ True Tenderness
■ Helllo!
Two songs op. 9
■ There are other planets (K. Bal'mont)
■ Unmoored is the vessel (A. Apukhtin)
Joan Rodgers, soprano
Vladimir Jurowski, piano
Five Melodies op. 35a
Aahot Sarkissjan, violin
Julian Gallant, piano(まだ書きかけ)
1月23日。今回の倫敦滞在中で最もハードな一日となろう。ナショナル・ギャラリーに
レオナルド・ダ・ヴィンチの展覧会を観に行く。そう書くといかにも簡単そうだが実際には至難の業だ。昨秋からこの二月上旬まで、会期全日の前売券は早々と完売し、ネット上では数万円のプレミアム付で売買されている由。正規の手段で観るのなら僅少な当日券を求めて朝早くから美術館前に並ぶほかない。
なので今日いよいよ意を決して赴くことにした。幸い天候は穏やかだし、耐えられぬほど寒くもない。月曜なら多少は混雑も緩和するのではとの思惑もあってのことだ。早朝五時前に起床、ヒートテック下着、ホッカイロ、折り畳み椅子など装備万端を整えるとテームズ河畔の宿をいざ出発、まだ周囲は真っ暗だ。
六時少し前にはトラファルガー広場に到着。朝まだきというのに美術館前にはもう百人ほどが屯している。とるものもとりあえず行列の驥尾に附す。開館は十時、それまで四時間ひたすら寒空の下で待つほかない。前後の人たちの話によると、売り出される当日券はきっかり八百枚。ひとり二枚まで購入可能だという。ともあれ入館できることだけは間違いなさそうで、ほっと胸を撫で下ろす。
展覧会 "Leonardo da Vinci: Painter at the court of Milan" はレオナルド展としては空前にして(恐らく)絶後、真作(あるいは真作に準ずる)絵画が十点も並ぶのは劃期的な出来事だ。なにしろ現存するレオナルドの絵画作品は、疑念の残る作品を含めても二十点未満。万能の天才は多忙だったし、完全主義者レオナルドは制作に恐ろしく時間を要したのだ。
今回の出品作九十三点中、レオナルド作とされた十枚の絵画は以下のとおり。
■ 音楽家の肖像 1486~87頃 ミラノ、アンブロジアーナ絵画館
■ 白貂を抱く婦人 1489~90頃 クラクフ、チャルトリスキ・コレクション
■ ベル・フェロニエール 1493~94頃 パリ、ルーヴル美術館
■ 聖ヒエロニムス(未完) 1488~90年頃 ヴァティカーノ美術館
■ 岩窟の聖母 1483(~85頃) パリ、ルーヴル美術館
■ 岩窟の聖母 1491/92~99、1506~08 ロンドン、ナショナル・ギャラリー
■ リッタの聖母子 1491~95頃、ペテルブルグ、エルミタージュ美術館
■ サルヴァトール・ムンディ 1499頃以降 個人蔵
■ バーリントン画稿 1499~1500頃 ロンドン、ナショナル・ギャラリー
■ 紡錘棒を持つ聖母子(弟子との合作) 1499頃以降 バックルー公爵家これだけの作品が一堂に会するのだから凄い。空前絶後とは誇張ではないのだ。
さて寒空の下で四時間を過ごすのは誰にとっても辛い体験だ。だがそこは流石に英国人たち。見ず知らず同士がすぐさま打ち解け四方山話に花を咲かす。こうすることで寒さも時の経つのも忘れることができる。小生がニッポン人と知るや、すかさず訪ねてきた、フクシマはどうなっている?住まいは近くなのか? 子供たちの健康は大丈夫なのか? 等々。
(まだ書きかけ)
1月22日。晴時々曇。雲間からの陽射しが心地よい。日曜日とあってテームズ河畔はいつになく賑わっている。南岸の遊歩道を十五分ほど歩いてテイト・モダンを訪れてみると、ここも老若男女で大盛況。特に展覧会をやっている時節ではないのにこの繁盛ぶりは羨ましい。特に何を観るというアテもなしに館内をそぞろ歩いてみた。もちろん入館無料。以下はメモランダム。
■ ダダとシュルレアリスムの大展示室。特に著名作はないものの、選り抜きのコレクションに感心する。とりわけ、
ジャコメッティ、ドーラ・キャリントン、シュヴィッタース、ジャクソン・ポロック。
■
ジョン・ハートフィールドの写真コラージュ。鋭利な諷刺と卓抜の発想に目を瞠る。
■ 英国唯一という
カジミール・マレーヴィチのスプレマチズム絵画。この世ならぬ彼岸的な佇まいに圧倒される。とりわけ非現実の色調。
■ 新収蔵作品として日本の新興写真に一部屋が充てられていたのにはちょっと吃驚。
山脇巖・道子夫妻の旧蔵品として、戦前のロシア絵本『これは何ですか?』がケース展示されていた。巖がソ連で入手したものという。
生憎ロスコ・ルームは閉まっていたが、まあいいや。これだけ観たら満腹。
そのあとサウスバンクに戻ると、ナショナル・シアター(NT)とブリティッシュ・フィルム・インスティテュート(BFI)それぞれの書店を物色。ロイヤル・フェスティヴァル・ホール(RFH)に入っている書店「フォイルズ」も覗いてみる。ケン・ラッセル監督の追悼記事の載った雑誌、バレエ興行主ルネ・ブリュムの評伝、『巨匠とマルガリータ』漫画版(!)等々。
そろそろ時間だ。RFHの階段を上がる。今日も「プロコフィエフ・フェスティヴァル」。
(まだ書きかけ)
1月21日。いつの間にか週末である。予定では演奏会に赴くつもりだったのだが、どうしても切符がとれずに断念。ならば今日は休養日と決めた。特に目的を定めずにただ街をふらつく。ウィグモア・ストリートを散策し、ウォーレス・コレクションを少し覗いたら、オックスフォード・サーカスのHMVを冷やかし(悲しいほど品揃えが貧弱だった・・・)、スーパー・マーケットで食糧を買い込む。夕方からはBBC・TVを観るともなしに観て、エルダーフラワー水やジンジャー・ビアを呑む。なんとも閑雅な一日。
1月20日。ようやく宿の準備ができたというので三日間いた寓居を引き払い、予定していたテームズ河畔の宿に移る。荷物の運び出しが済むと、その足で郊外の大学図書館で調べもの。一段落つくとまた都心にとって返し、新居で荷解き。ふう。
こういう忙しい一日だったから、夜は静かに室内楽がいい。それも思いきり落ち着ける親密な空間で。ならば新設されて間もない
キングス・プレイス(Kings Place)が最適ではなかろうかと考えた。
この場所は2008年初夏、たまたまリージェンツ運河に沿って散策していて見つけた。運河に付随した舟溜まりに隣接して、シックで目新しい建物が忽然と姿を現した。水際には瀟洒なカフェがある。一体なんの建物だろうかと訝しく思った。
それがキングズ・プレイスという施設だと知ったのは、ピアニストの小川典子さんが昨春ここのホールで震災被災者救済演奏会を催した記事を読んだときのことだ。とても響きのよい美しいホール、とあった。
(まだ書きかけ)
1月19日、倫敦滞在二日目。ロイヤル・アカデミーに赴く。
お目当ては "Building the Revolution" なる小企画展。22日に終わってしまうというので慌てて足を運んだ次第。ロシア革命後のソ連建築とアヴァンギャルド美術の交感に光をあてた内容というから興味津々である。
中庭に入るや、ヴラジーミル・タートリンの「
第三インターナショナル記念塔」模型が聳え立つのが目に入る。今回の展覧会用に復元されたのだという。全長十メートル。見上げるほどの高さだが、これでもタートリンが構想した塔の四十分の一のスケールだというから驚く。
いざ展覧会場に赴こうとすると、ちょうど折悪しくデイヴィッド・ホックニー近作展の初日だとかで正面玄関は大混雑、切符売場で一時間も待たされる破目に。当地のホックニー人気の凄まじさに驚かされた次第。
さて意中の展示はいかにも小ぢんまりした規模で、しかも建築展の通弊で、そこには現物がないため隔靴掻痒の感は否めない。
展覧会構成は、一方にタートリン、ロドチェンコ、リシツキー、ポポーワらの構成主義の「建築的」素描を並べ、他方に1920~30年代初頭のソ連建築の実例(1990年代に Richard Pare が撮った建築写真。素晴らしい!)を配するという仕掛け。両者の同時代的共振を明らかにしようという意図は明確なのだが、これらを同じ「建築」というタームで括るには双方の成果には大きく隔たりがあるように感じられてならない。前者があくまで想念としてのユートピア建築であるのに対し、後者は現実の社会主義建設の端的な現れだ。夢と現実の齟齬といったらいいか。
唯一これは凄いと思ったのは、モスクワに現存する「
シャボロフカ電波塔」という鉄骨製のタワー(ヴラジーミル・シューホフ設計、1922)。内戦下の材料不足で当初予定の高さ三百五十メートルの半分にも達しなかったが、それでもこれは革命期の若々しい精神を今に伝える壮大なモニュメントである(
→これ)。この塔がタートリンの夢想した記念塔とよく似ているのは偶然ではなかろう。
展覧会の最後を締め括るのはモスクワの赤の広場に建つ「
レーニン廟」。新社会の誕生を夢見たアヴァンギャルド期のソ連建築が禍々しい20世紀のマウソレウムを産み出したという歴史の皮肉に、背筋の寒くなる思いを禁じ得ない。
ホックニー展を観る気力も体力もないのでアカデミーを退出。ひとまず宿に戻ってシャワーを浴びたあと
バービカンへと赴く。一年前の訪倫時には訪れなかったので、この複合文化施設に足を踏み入れるのは四年ぶりになろうか。今夜はここのホールでBBC交響楽団の定期公演がある。
会場に着くと張り紙があって指揮者の交替が告知されている。予定されたトーマス・ダウスゴー(Thomas Dausgaard)が病気につき急遽アンドルー・ガーリー(でいいのか、Andrew Gourlay と綴る)が振るのだという。やれやれ。
The Barbican
2012年1月19日
19:30-
アンドルー・ノーマン:
アンスタック Unstuck (英国初演)
ブリテン:
ヴァイオリン協奏曲(改訂版)*
ショスタコーヴィチ:
交響曲 第十番
ヴァイオリン/ダニエル・ホープ*
アンドルー・ガーリー指揮
BBC交響楽団前から発表されていた演目に変更はない。英国初演を含む難曲揃いのプログラムを引き継ぎ、短期間で習得したピンチヒッターの労は讃えられていい。とりわけ滅多に聴けぬブリテンの協奏曲は、夢幻的でとりとめのない音楽なのだが、緊張感を絶やさず保ったのは偉とするに足る。独奏者ホープも実演を初めて聴くが、線の細い美音がこの曲には実に似つかわしく、心を奪われる美しい瞬間が頻出。
休憩後のショスタコーヴィチの十番もまあ悪くない。一時間近い長丁場を破綻なく乗り切ったが、それ以上でも以下でもなかった。こうした曲になると、指揮者の解釈の弱さ(というか、急場凌ぎ故の底の浅さ)が露呈する。全奏者が一丸となった大熱演ではあったが、それだけではどうにもならない。
ちょっと残念な結果だったが、まあいい、そういう日もあるのさ。
それにしてもバービカンの心和む居心地の良さはどうだ。早めに着いて展覧会を観るも、軽食を摂るも、ロビーで談笑するも、喫茶するも思いのまま。それに引き較べ、わがニッポンはどうしてこういう施設づくりができないのだろう。先日たまたま訪れたトーキョーの新国立劇場のロビーたるや殺風景そのもの、火葬場さながら心の凍りつく非人間的な空間だった。レーニン廟のほうがずっと居心地いい。
一昨日の夕方、倫敦に到着。思いのほか寒くないのでホッと安堵している。むしろ東京より暖かい位。このまま陽気が続いてくれるといいのだが。
昨夜はテームズ河畔サウスバンクのロイヤル・フェスティヴァル・ホール(RFH)にて「プロコフィエフ・フェスティヴァル」。ヴラジーミル・ユロフスキーの精妙な解釈に目を瞠った。曲目は
"Prokofiev: Man of the people?"
18 January 2012
19:30-
Royal Festival Hall
プロコフィエフ:
交響的歌
ピアノ協奏曲 第五番*
交響曲 第六番
ピアノ/スティーヴン・オズボーン*
ヴラジーミル・ユロフスキー指揮
ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団生で聴く機会の乏しい三曲なので耳を欹てて聴く。こんな渋い演目なのに客席は満員。後半の第六交響曲はかねがねプロコフィエフ至高の傑作ではないかと常々思っているが、今夜の演奏はそれを裏付けるような凄烈な名演。ブラヴォが飛び交う。やはりユロフスキーは只者ではない。
詳しくは後日。旅にしあれば文をかまはず。
忙中閑あり。出發を目前に心して聽くは極め附きの凄演。
プロコフィエフ:
交響曲 第五番
終戰頌歌
ヴラジーミル・ユロフスキー指揮
露西亜國立管絃樂團2005年9月、モスクワ音樂院大樂堂(實況)
2007年9月、モスクワ、DZZスタヂオ5
Pentatone 5186 083 (2007)
やつと準備が整つた。然らば愈々出掛けるとしやうか。
いやはや息せき切った一日だった。大事な所用で竹橋まで往還、ミーティングで所論を申し述べる。なんとか企ては端緒に就いたか。それにしても寒い日だ。帰宅途中で凍えそうになる。そのあとは慌ただしく買物と旅支度。トランクは一体どこだ…。
厄介なデスクワークに追われている。膨大な数の文章からアンソロジーを編む。ざっと全体に目を通してはみたものの、ここからの選定が至難の業なのだ。ふう。
一息つこう。年が明けて最初のプロコフィエフ。手許にありながら久しく敬して遠ざけてきた大作オペラをCDで聴いてみる。
プロコフィエフ:
歌劇 『修道院での結婚 Обручение в монастыре』
ドン・ジェローム/ヴャチェスラフ・ヴォイナロフスキー
ドン・フェルディナンド/アンドレイ・ブレイス
ルイザ/リューボフィ・ペトローワ
乳母/アレクサンドラ・ドゥルセネワ
ドン・アントニオ/フセヴォロド・グリヴノフ
クララ/ニーノ・スルグラーゼ
メンドーサ/セルゲイ・アレクサシュキン
ドン・カルロス/アラン・オーピー
アウグスチン師/ジョナサン・ヴェイラ ほか
ヴラジーミル・ユロフスキー指揮
ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団
グラインドボーン歌劇場合唱団2006年8月12、15、22日、グラインドボーン歌劇場(実況)
Glyndebourne GFOCD 002-06 (2008)
なにぶん露西亜語のオペラなので、歌詞は対訳の英語から知り得るのみ。粗筋を追うのがやっとなのだが、聴こえてくる音楽は極上である。
それもその筈、作曲された1940年前後、プロコフィエフの創作力は絶頂期にあった。バレエ『ロミオとジュリエット』、オペラ『セミョーン・コトコ』、映画《アレクサンドル・ネフスキー》サウンドトラックに続き、三つのピアノ・ソナタ(第六、第七、第八)も既に腹案段階にあり、第五交響曲やバレエ『シンデレラ』の構想作曲も間近に迫りつつある──そういう時期のプロコフィエフが精魂を込め、且つ愉しみつつ書いた。
(まだ聴きかけ)
今年になって初めての「エイゼンシュテイン・シネクラブ」例会(第二百二十九回)。今回は井上徹さんが
アンドレイ・フルジャノフスキー Андрей Хржановский 監督について話すという。題して「
フルジャノフスキーのシュールな世界」。万障繰り合わせて春日の文京シビックセンターに足を運ぶ。
フルジャノフスキー監督は1960年代から永いキャリアを誇るロシアのアニメーション界の巨匠のひとりだが、近年は実写ドラマとアニメを自在に組み合わせた作品に新境地を拓き、《
一部屋半 あるいは祖国への感傷旅行》(2008)で世界的な注目を浴びた。この二時間に及ぶ大作は一昨年たった一度だが東京でも上映の機会があり、深い郷愁に満ちた魅惑的な映像に強く心を揺さぶられた(その日のレヴューは
→地上で最も美しい街への追憶)。
昨夏にはフルジャノフスキー監督が来日を果たし、サントリーホールで初期アニメ中篇《
グラスハーモニカ》(1968)の生オーケストラ附きの上映(音楽はアリフレード・シニートケ)も行われたので、その折に監督の謦咳に接したファンも少なくなかろう(その場に居合わせたSonnenfleckさんの秀逸なレヴューがある。
→ここ)。
そうした鮮やかな記憶を反芻しつつ、ロシア・アニメ研究の第一人者である井上さんの懇切な解説に導かれて、フルジャノフスキー作品を回顧する。なんと有意義な機会であることか。今夕の上映作品は以下のとおり。
《グラスハーモニカ Стеклянная гармоника》 1968
《奇妙な箪笥 Калейдоскоп-71 (вып.2). Шкаф》 1971
《あなたと一緒に再び私は… И с вами снова я…》 1980
《一部屋半 あるいは祖国への感傷旅行 Полторы комнаты,
или Сентиментальное путешествие на родину》 2008 (抜粋)(まだ書きかけ)
根をつめてデスクワークの一日。気がつくともう夕暮時だ。冬至の頃より日没がやや遅くなった気がする。西の空は茜色の諧調に染まり、富士山がくっきり紫色に浮かぶ。息を呑むほどの美しさ。いつも同じ感想になるが、まさしく加藤泰の映画のよう。
ディーリアスはちょっと小休止して、昨年末に届いた箱物から少しだけ聴いてみる。
"Willem van Otterloo: The original recordings 1951-1966"
スメタナ:
歌劇『売られた花嫁』序曲 1*
歌劇『売られた花嫁』ポルカ、フリアント、道化師の踊り 2*
フランク:
交響詩「アイオリスの人々」3
交響曲 3
シューベルト:
交響曲 第五番 4*
ブラームス:
大学祝典序曲 5*
ワーグナー:
ジークフリート牧歌 6*
サン=サーンス:
交響曲 第三番 7*
フランク:
交響詩「プシュケ」8*
ウィレム・ファン・オッテルロー指揮
ハーグ・レジデンティ管弦楽団 1, 2, 4, 5, 7, 8
オルガン/フェイケ・アスマ 7
オランダ室内合唱団 8
アムステルダム・コンセルトヘバウ管弦楽団 3
ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団 6
1966年1月5日
1、3日
2、1964年1月7~12日
3、1960年5月18、19日
4、
1953年12月23日
5、1951年6月18~25日
6、1954年4月2、3日
7、
1954年10月21日
8、
アムステルダム、コンセルトヘバウ楽堂
1-5, 7, 8ベルリン、イェズス・クリストゥス聖堂
6Challenge CC72383 (2010)
全七枚組のなかから拾い聴き。分量的にはこれでやっと三枚分になろうか。どれもこれも入念に仕上げられた秀演ばかりなのに驚嘆を禁じ得ない。オッテルローとはそういう指揮者だったのだ。
ウィレム・ファン・オッテルローには奇しき縁を感じている。それについてはもう繰り返さない。五年前に書いた拙文をここに並べておく。
→オランダの客人→オッテルローとその息子→探しものはなんですか→ヴァーサタイルな燻し銀→こんな筈ではなかった…→さまよえるオランダ人→フェニックスは灰から甦る冒頭のスメタナからして心が躍る。展開に無理や誇張がなく、音楽的な筋目が通っている。気品があって端正で、隅々まで神経が行き届いている。作為を排したイン・テンポの音楽なのに、一瞬たりとも単調さに陥りはしない。端倪すべからざる才能だ。こんな指揮者が今の時代にいてくれたらなあと心から思う。
とりわけフランクが素晴らしい。自在な音楽とはこのことだ。「プシュケ」を聴くのはLP時代以来だから二十年ぶりか。合唱の入った全曲版なのが嬉しい。そしてサン=サーンス。淀みのない透明感と疾走感はちょっと比類がないものだ。一体フランスの指揮者の誰がこの「軽やかな壮大」を現出できたろうか。これらをかつて愛聴したときのアメリカ盤のジャケットを懐かしみつつ聴いた(
→これ、
→これ)。
「*」を附した演目はすべて初CD化されたものだ。このセットにはベートーヴェンの「第五」「田園」、ブルックナー「第七」まで収録されていて、聴く前から胸が高鳴る。フェニックスは滅びないのだ。
(承前)
小生のディーリアス熱は罹病このかた四十年以上にもなる。もはや宿痾の域に達したと云うべきか。LPはあらかた手に入れて繰り返し聴いた。CD時代になるとぐっとアイテム数が増したので完全収集は難しいが、それでも主要なものは手許にある。そうなるとあとはSP盤ということになろうが、さすがに怖気づいた。そもそも再生装置が家にないのだから、聴きようがないのだ。
それでもSPアルバムを一組だけ架蔵する。たまたま神田神保町で見つけた。
DELIUS:
Concerto for Violin and OrchestraAlbert SAMMONS, violin
and the Liverpool Philharmonic Orchestra
conducted by
Malcolm SARGENTCOLUMBIA Masterworks Set mm-672 (1947)音が聴けなくともよい。何しろアルバム・カヴァーが驚くほど秀逸なのだ(
→これ)。
永らく茶封筒のような地味な袋に収められていたSP盤(これはLP登場以後の呼び名)も、複数枚がセットになった組物の場合には厚紙製の丈夫な表紙で束ね、この形のものを「アルバム」と称した。米国では1940年代からSPアルバムの表紙(=アルバム・カヴァー)に美麗なイラストレーションをあしらう手法が急速に一般化し、これが1948年に始まるLP時代の「レコード・ジャケット」百花繚乱の嚆矢とされる。このあたりの事情は拙著『12インチのギャラリー』にざっと略述した。
最も個性的だったのは最大手である米コロンビア社のSPアルバムである。クラシカル、ポピュラーの別なく、その殆どすべてのカヴァー・デザインを一手に担当したのが
アレックス・スタインワイス Alex Steinweiss(1917~2011)という傑物である。当時まだ二十代の若さで同社の初代アート・ディレクターに就任した彼は、千数百点に及ぶアルバム・カヴァーを矢継早に手がけた。
このディーリアスのアルバム・カヴァーは数あるスタインワイスの仕事のなかでも秀作の部類に属するもの。城壁に囲まれた長閑な英国風景。川沿いに集う赤い屋根の家々、小舟と石橋と畑。手前には英国国旗が翩翻とはためく…かと思いきや、城壁はヴァイオリンの胴に、旗竿はその弓に見立てられているのである。周囲の余白には曲名と演奏者が考え抜かれた字配りで周到に記される。
(まだ書きかけ)
(承前)
今日これから聴いてみたいのは、ディーリアスのチェロ協奏曲を含むアルバムである。小生にとってこれはビーチャム卿の「デリアス/管弦楽作品集」、バルビローリ卿の「英国音画集 English Tone Pictures」に次ぐ三枚目のディーリアスLPだった。購入は1971年4月5日、神田神保町を散策中に古本街の小さな輸入レコード店「ミューズ社」でたまたま見つけたものだ。独奏は
ジャクリーヌ・デュ・プレ。彼女が二十歳の誕生日を目前にして挑んだ初の協奏曲録音である。
この盤を手にした1971年春の時点で、我が国でのデュ・プレの知名度は限りなく零に近かった。エルガーの協奏曲のLPが一度出ただけで、なんの話題にもならず早々と廃盤の憂き目を見ていた(当時エルガーを真剣に聴く愛好家はごく少数だった)。僅かに三浦淳史と吉田秀和が欧州でのデュ・プレ人気の凄さを喧伝してはいたものの、手に入る日本盤が皆無では彼女の名が広まる術もなかったのだ。
ディーリアス:
告別の歌*
日の出前の歌**
チェロ協奏曲***
マルコム・サージェント卿指揮
ロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団
ロイヤル合唱協会*
チェロ/ジャクリーヌ・デュ・プレ***1964年4月22、23日*、1965年3月2日**、1月12、14日***
ロンドン、アビー・ロード、第一スタジオ
米Angel S 36285 (1966)
今でも憶えているが、店頭には同じLPの英EMI盤もあり、ジャケットもコンスタブル描く風景画をあしらった同一デザインだった。本来なら英国のオリジナル盤を手に入れるのが筋なのだが、米エンジェル盤のほうが少し安価で、しかも裏面の解説にはデュ・プレ芳紀十九歳の演奏姿を捉えたモノクロ写真が載っていたものだから、一も二もなくこちらを選んだ。四十年前のとるに足らぬ些細な記憶なのだが。
そういえば、このLPは日本盤が遂に出なかったと思う。デュ・プレの名が知られるにつれ、ディーリアスの協奏曲だけがエルガーの協奏曲と表裏に組み合わされて発売され、「告別の歌」と「日の出前の歌」は永く顧みられなかった。CD時代になっても泣き別れ状態は変わらず、この収録三曲を続けて聴ける盤は絶えてなかった(これは欧米でも同じ)。それがつい昨年になって懐かしいあの風景画ジャケットを用いた覆刻SACDがわがニッポンで出たのには吃驚した(
→これ)。
発売当初このチェロ協奏曲はB面だったので今回の覆刻でも最後に来ているが、待ちきれぬ思いで真っ先に聴く。なんという儚い美しさだろう。デュ・プレは1962年に生地ブラッドフォードで催された生誕百年記念「ディーリアス音楽祭」に招かれ、誕生日当日(1月29日)チェロ・ソナタを演奏しているから、ディーリアスの音楽には相応に親炙してはいたろうが、この録音以前に協奏曲を弾いた経験はなかったといい、現場にはエリック・フェンビーが立ち会っていろいろ助言を与えた由。その甲斐もあってか、素晴らしく感興に満ちた魅惑的な演奏が残された。
ところで指揮者は何故マルコム・サージェント卿なのだろうか。デュ・プレを贔屓にした指揮者といえば第一にまずバルビローリであり、両者が共演したエルガーのチェロ協奏曲の録音は未だに名盤の誉れを恣にしているのは誰もが知るとおりだ。
ところが最近になって意外な事実が判明した。デビュー間もないデュ・プレ嬢と事ある度毎に共演を重ね、わが娘のように引き立ててきたメンター(導き手)はほかならぬサージェントだったのである。
1962年から65年までの毎夏、デュ・プレは四年連続してロンドンの「プロムズ」出演を果たし、その度に十八番のエルガーの協奏曲を披露しているのだが、伴奏指揮はいつも決まってサージェントだった(詳しくは
→芳紀十八歳のエルガー)。彼女のディーリアス録音は毎夏の共演を通して大指揮者との信頼関係が育まれつつあるなかで実現したことになろう。
ビーチャム卿という圧倒的に眩い存在の蔭に隠れた感があるが、サージェントもまた彼なりにディーリアス音楽の普及に貢献した指揮者である。1944年、初演者アルバート・サモンズを独奏者とするディーリアスのヴァイオリン協奏曲の史上初録音の際、伴奏指揮を務めたのはサージェントその人だった(ビーチャム指揮による同協奏曲録音に先立つこと二年)。
更に驚くべきは、ディーリアス最晩年の1932年、フェンビーの助力で完成した管弦楽伴奏付合唱曲「
告別の歌 Songs of Farewell」が世界初演されたとき、指揮台に立ったのはほかならぬサージェントだったという歴然たる事実だ。
すなわち、本アルバムは同曲の初演者による世界初録音──サージェントにとって恐らく悲願とも称すべき企てだったに違いない。因みにビーチャムはこの曲もまたお気に召さず、生涯で指揮したのはただ一回きりだという(それも抜粋で)。1961年のビーチャムの長逝を待っていたかのように、サージェントがこの愛着ある大作を録音したのは実に意味深長だ。しかもビーチャムの手兵だったロイヤル・フィルとそのコーラスを統率してのセッション。これはある種の意趣返しなのだろうか。
何はともあれ、サージェント卿のディーリアスが良好なステレオ録音で遺された僥倖には感謝するほかない。それが芳紀十九歳のデュ・プレ嬢との共演だった幸運にも。それから僅か二年後、この謙虚な指揮者は惜しまれつつ病歿した。
(承前)
続いて小生が耳にしたディーリアス三枚目のLPはジャクリーヌ・デュ・プレが独奏を務めたチェロ協奏曲ほかを収めたアルバムだったのだが、話の都合上これは後に回すことにして、今日ここで紹介するのは前回同様ジョン・バルビローリ卿が指揮したディーリアス・アルバムである。小生はこれを1971年4月9日に秋葉原の石丸電気で手にした。碌に勉強もせず音楽三昧のまま大学に進んだ春のことだ。
全く無関係ながら、その二日前の4月7日にはストラヴィンスキーが世を去っている。次の日の朝日新聞で「どこでどうしてミューズはこんなに年をとってしまったのか」云々と吉田秀和が追悼文を寄せている、と手控帖にある。
周知のとおり、バルビローリは前年7月、ニュー・フィルハーモニア管弦楽団を率いた初来日公演(マーラーの第一、ジャネット・ベイカーとの「子供の死の歌」、ブリテンの鎮魂交響曲ほか)を目前に、倫敦でそのリハーサル中に斃れて急逝した。このLPは日本コロムビアから追悼盤として10月に出たものだ(英Pye原盤)。
ただし録音年度は1956年とかなり古く、最初期のステレオ故に著しく鮮度を欠く。とはいうものの、演奏そのものの深さ、瑞々しさには目を瞠るばかり、音質の瑕疵を補って余りあるものだ。小生はこの盤を擦り減るほど聴いて(←死語)、ディーリアスのなんたるかを初めて会得した。その音楽の呪縛から逃れられないほどに。
《フレデリック・デリアスの音楽》
ディーリアス:
田園曲*
歌劇『イルメリン』前奏曲
春初めてのカッコウを聞いて
歌劇『フェニモアとゲルダ』間奏曲
楽園への道
ソプラノ/シルヴィア・フィッシャー*
バリトン/ジェス・ウォルターズ*
サー・ジョン・バルビローリ指揮
ハルレ管弦楽団
日本コロムビア Pye OS-2395-Y (1970)この懐かしくも血肉化した演奏を久しぶりにCDで聴き直してみよう。
"Sir John Barbirolli conducts Delius"
ディーリアス:
楽園への歩み ~歌劇『村のロミオとジュリエット』*
歌劇『イルメリン』前奏曲*
春に郭公の初音を聴いて*
歌劇『フェニモアとゲルダ』間奏曲*
牧歌:「かつて私は雑踏の都会を通り過ぎた」**
夏の歌***
二枚の水彩画(フェンビー編)****
日の出前の歌*****
ソプラノ/シルヴィア・フィッシャー**
バリトン/ジェス・ウォルターズ**
ジョン・バルビローリ卿指揮
ハレ管弦楽団* ** *** ****
新交響楽団*****1956年6月21日*、12月11日**、マンチェスター、フリー・トレード・ホール
1950年2月4日、ロンドン、アビー・ロード、第一スタジオ***
1948年4月1日、マンチェスター、ホールズワース・ホール****
1929年6月7日、ロンドン、スモール・クィーンズ・ホール*****
Dutton The Barbirolli Society CDSJB 1005 (1996)
このCDは1956年のパイ(Pye)録音の四曲に加え、戦後すぐEMIにバルビローリが残した貴重なSP(「夏の歌」初録音を含む)や、ディーリアス存命中の1929年の稀少録音「日の出前の歌」まで収録した一枚。至れり尽くせりの内容である。
とりわけて素晴らしいのが、男女の独唱入りの "Idyll" ──「田園曲」「田園詩曲」などと称されるが、語感的に「田園」は "Pastoral" なので、「牧歌」と訳すほうが相応しい──助手エリック・フェンビーの助力によりディーリアスが最後に仕上げた作品である。この曲の史上初録音であり、バルビローリはこれを全き共感と愛情をもって、全身全霊を捧げるように指揮している。まさに絶唱と呼びたくなる壮絶な演奏だ。こうした最晩年の作品にこそ、ディーリアス芸術の神髄があるのだ、というのが恐らくバルビローリの捉え方であり、一貫してこの時期の作に冷淡だったビーチャムとは根本的に異なる立場からのアプローチだったのだと思う。
「牧歌 Idyll」はホイットマンの『草の葉』から詩篇を撰んで、青春への郷愁と悔恨を滲ませつつ宿命的な男女の愛を相聞歌ふうに高らかに謳い上げたものだ。ホイットマンの詩集はニーチェやダウソンと並ぶディーリアスの愛読書で、傑作「海流(藻塩草)」や「告別の歌」でもテクストとした。昔これを初めて聴いた十八歳の田舎者に、詩句の機微なぞ到底わかる筈もなかったのだが、最後の一節、
Sweet are the blooming cheeks of the living,
Sweet are the musical voices sounding,
But sweet, ah sweet, are the dead
With their silent eyes.
I ascend, I float to the regions of your love, O man.
All is over and long gone, but...
Love is not over.に無闇と感激したものだ。四十年後、その詩句は更にしみじみ心に沁みてくる。
この「牧歌」収録に先立つこと半年、バルビローリはLP片面分、四つのディーリアス小品を集中的に録音している。いずれも自家薬籠中といった趣の充実した演奏で、やがてEMI で再録音されることになるのだが、「フェニモアとゲルダ」間奏曲のみは収録が未完に終わり、このPye録音が唯一のものとなった。ともあれ、若々しく活力と稚気に満ちたビーチャムとはまるで趣の異なる「懐旧と悔恨の交錯する」バルビローリならではの老練なディーリアスが集中的に聴ける歓びは何物にも代えがたい。しばしば演奏能力に留保条件の附く手兵ハレ管弦楽団も、ここでは申し分ない巧者ぶりを発揮する。素晴らしい一枚。
附録として補完されたSP覆刻はいずれも稀少極まりないもの。これが史上初録音だった「夏の歌」(1950年収録)を聴くと、バルビローリの解釈は後年と瓜二つで、すでに方向が定まっていたことが知れる。
ケン・ラッセル監督がBBCで撮ったTV映画《夏の歌》(1968)がNHKで放映されたのを観てすっかり虜になったのが1970年2月19日のこと。この話はもう何度も書いた。作曲家ディーリアスの存在を初めて知ったわけだが、その標題になった肝腎の楽曲「夏の歌」をレコードで聴くのは容易でなかった。なにしろ日本盤で当時出ていたディーリアスは(すでに紹介した)ビーチャム指揮のアルバム一枚きりで、その盤にこの曲は収録されていなかったし、輸入盤で探すという知恵が田舎の高校生にはなかなか思い浮かばなかったのだ。
ようやく見つけたのは同年の12月12日、と日記にある。
高校時代の幼稚な手控帖を繰るのは恥ずかしさの極みなのだが、その日は土曜日なので、授業を終えたその足で学生服姿のまま上京した由。銀座四丁目の山野楽器でLPを一枚購入。ドヴォジャークの弦楽セレナードと管楽セレナードを表裏に組み合わせたものだ(チェコの演奏家たちによる名盤である)。そのあと映画を一本観た。小屋は裏手の並木通りにあった並木座、番組はなんと《ティファニーで朝食を》だったというのがちょっと驚きだ。邦画専門の名画座として知られる並木座だが、当時は洋画の二本立興行もやっていたらしい。手控にはオードリー・ヘップバーンへの讃辞が綴られているが、とても引用に価しない拙劣さだ。
映画館を出ると何故か五丁目のギャラリー・ユニバースという画廊に赴き、イタリアの彫刻家ファッツィーニの個展を観ている。小品ばかり三十点ほどの展示だったらしいが、無闇に感激したらしく、日記には作品名ごとにコメントまで添えている。これまた赤面ものの文章。うわあ恥ずかしい。
表通りに引き返すと、そのまま七丁目のヤマハ楽器のレコード売場へ。そこで思いがけず珍しい英国盤に出くわすのである。かなり高価だった筈だが迷うことなく手に取った。「
展覧会のあと、ヤマハでまた珍しいレコードに出会い、それも買った。あのディーリアスの《夏の歌》のはいったレコードだ。演奏はサー・ジョン・バルビロリ」。
"English Tone Pictures"
John Ireland:
A London Overture
Arnold Bax:
Tintagel
Frederick Delius:
The Walk to the Paradise Garden
Prelude "Irmelin"
A Song of Summer
Sir John Barbirolli/
London Symphony Orchestra
EMI ASD 2305 (1967)今夜はこれを久しぶりに聴こう。幸い同じ曲目のままCDになっている。
《イギリス音楽の詩情を求めて:ディーリアス/夏の歌》
アイアランド:
ロンドン序曲*
バックス:
ティンタジェル*
ディーリアス:
楽園への歩み ~歌劇『村のロミオとジュリエット』**
歌劇『イルメリン』間奏曲***
夏の歌***
ジョン・バルビローリ卿指揮
ロンドン交響楽団1965年12月28日*、8月24日**、8月24日&1966年7月14日***、
ロンドン、アビー・ロード・スタジオ*、キングズウェイ・ホール** ***
東芝EMI CE33-5246 (1989)
トマス・ビーチャム卿が健在だった時代、EMIにおけるディーリアス録音はほぼ彼の専売特許、独占状態に等しかった。ディーリアスとは殆ど無縁だったエイドリアン・ボールト卿はともかく、マルコム・サージェント卿、ジョン・バルビローリ卿らはそれぞれディーリアスに一家言ある指揮者だった筈だが、敢えてビーチャムの向こうを張る挙には出たくなかったのか、殆どディーリアス録音に手を染めていない。
そういう次第だったから、1961年にビーチャムが歿すると、それを契機にあたかも禁が解けたかの如く、他の指揮者たちによるディーリアス録音が少しずつ開始される。このバルビローリのアルバムはまさにその一例なのである。
前半(A面)のアイアランドとバックスは殆ど奏される機会のない珍しい曲に属するが、まあ可もなく不可もない演奏。ところがB面になると様相は一変し、バルビローリの面目躍如たるディーリアスが聴ける。深く静謐な瞑想に浸り、滔々たる歌の流れに身を任せ、胸の張り裂けそうな強奏へと到る──マーラーと同時代を生きた世紀末作曲家ディーリアスを浮き彫りにする解釈は、ああゆる点でビーチャムの対極を行くものだ。とりわけビーチャムが一顧だにしなかった「夏の歌」は、まさしく絶唱の名に値する凄まじい名演といえよう。昔も今もつくづくそう感じる。「楽園への歩み」での沈潜から激情への息の長い緊張の持続もちょっと比類のないものだ。
所用で葉山の神奈川県立近代美術館を訪問した。休日だというのに皆さん出勤しておられ、学芸員の三本松倫代さんとも少しだけ雑談。彼女は二月中旬から始まる村山知義の回顧展の担当なので、その準備に忙殺されているところだ。実は小生も架蔵する絵本、児童雑誌、演劇・映画パンフレットの類をいくつか同展に貸し出したから、全くの部外者というわけではない。三本松さんは今まさに展覧会カタログ編集の真只中。ちょっとレイアウトを覗かせていただくと、これが実にもう興奮を禁じ得ない充実した出品内容なのに思わず息を呑む。
村山知義は遊学先のベルリンで最尖端のアヴァンギャルド芸術に開眼、帰国するや前衛集団「マヴォ」「三科」で破天荒な活躍を繰り拡げた。1920年代の彼はまさに時代の挑発者であり、その活動は絵画・コラージュ・版画・舞台美術、更には自らの身体を駆使したパフォーマンスや、奇抜で独創的な建築設計にまで及んでいる。今回の展覧会がいみじくも「
すべての僕が沸騰する 村山知義の宇宙」と題されているのは、明らかにこの時期のアヴァンギャルディスト村山の八面六臂の活躍に焦点が当てられている証であろう(
→展覧会プレス資料)。
とはいえ村山にはそうした尖鋭的な営みとは裏腹に(否むしろ、それと表裏一体をなす「もうひとつの貌」として)、子供たちのための魅惑的なイラストレーションも膨大な数こなしている。しかも、こちらの分野の仕事は十代から最晩年まで、彼の創作活動のほぼ全期間に及んでおり、しかも彼の個性的な描画スタイルは("Tom" という署名とともに)終生にわたり驚くほど揺るがない。むしろ、この領域でこそ村山は真の素顔を覗かせているのではないか、と問うてみたくもなる。
かてて加えて、村山知義は1920年代後半プロレタリア演劇に傾倒してからは前衛志向を排した劇作・演出を活動の中枢に据え、数度の逮捕・転向・出獄を経ながら、戦後までの永きにわたり左翼演劇の推進者であり続けた。この間に彼が演出した芝居は夥しい数に上り、三本松さん曰く「演目数では優にマックス・ラインハルトを凌駕する」由。こうして愚直なまでにリアリズム劇に邁進する村山の姿ほど、かつてのアヴァンギャルドなイメージに背馳するものはあるまい。
このほか彼にはアルブレヒト・デューラーばりに緻密な筆致で描いた一連のリアルな肖像画があるし、小説家としてもロングセラー『忍びの者』を世に送ったほか、自伝文学の傑作『演劇的自叙伝』の存在も見逃せない…。
…とまあ、書き出すとキリがないほど村山知義の才能は全方位的に炸裂し、まさしく万能の天才だったと云いたいくらいだ。彼の創作活動を展覧会として回顧総括し、その全体像を提示するのは至難の業、小生などは全くお手上げである。
三本松さんや仕掛人たる水沢勉館長のお話に拠れば、今回の展覧会ではプロレタリア演劇時代以降の演出作品や作家活動には深入りせず、やはり「美術の仕事を中心に展開した、村山前期にあたる1920~30年代」にフォーカスしたものになるそうだ。それは美術館として妥当かつ賢明な判断だろうが、この時代に限るにしてもなお、上述したように彼の活躍は目も眩むほどに百花繚乱。実際にどのような展示になるのか、そこからいかなる村山知義の実像が姿を現すのか──こればかりは展覧会がスタートし、実際に展示室に足を踏み入れないと想像もつかない。2月11日の初日を今から指折り数えて心待ちにしている。
今夜はやっと一時的だが胸の閊えが下りた思いがするので、昨年から宿題になっていた最も価値ある再発盤をじっくり聴き込むことにしたい。実に値千金の音源が含まれている。再登場を何十年待ち望んでいたことか!
"20th Century Classics -- Kodály"
コダーイ:
組曲『ハーリ・ヤーノシュ』*
マロシュセーク舞曲**
ミサ・ブレヴィス***
合唱曲集****
■ 聖霊降臨祭の季節
■ ジプシーがチーズを食べる
■ 山の夜
■ 踊りの歌
■ 空想
■ ワイナモイネンが音楽を奏でる時
■ ラディスラウス王国
■ 天使と羊飼い
ガラーンタ舞曲*****
三つのハンガリー民謡******
無伴奏チェロ・ソナタ*******
クラウス・テンシュテット指揮 ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団*
ウォルター・サスキンド指揮 ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団** *****
スティーヴィン・クレオバリー指揮
ケンブリッジ・キングズ・カレッジ合唱団***
イロナ・アンドール指揮
ブダペスト・コダーイ少女合唱団****
ヴァイオリン/ダヴィッド・オイストラフ******
ピアノ/ヴラジーミル・ヤンポリスキー******
チェロ/ポール・トルトリエ*******1983年9月22、23、26日、ロンドン、アビー・ロード・スタジオ*
1977年11月24日、ロンドン、キングズウェイ・ホール** *****
1987年3月14日、ケンブリッジ、キングズ・カレッジ礼拝堂***
1965年6月22日、ロンドン、キングズウェイ・ホール****
1956年2月28日、ロンドン、アビー・ロード第一スタジオ*****
1977年4月3日、1978年2月7日、ロンドン、アビー・ロード第一スタジオ******
EMI 0 94678 2 (2011)
何度も紹介しているEMIの「20世紀の古典」シリーズの白眉がこの二枚組であることは論を俟たない。選曲の秀逸さは云うまでもないが、ここには小生が何度か話題にし(
→ジプシーがチーズを食べる →ハンガリーのわらべうた →ハンガリー民謡の啓示するもの →「ジプシーがチーズを食べる」再び) 、そのCD化を切望してきた
イロナ・アンドール女史の指揮するコダーイ少女合唱団の歌唱が収められている。彼女らの歌唱についてはかつて柴田南雄さんが初出LPのライナーノーツで見事な紹介文を書かれている(1967年)。それを引用するに如くはない。
コダーイ少女合唱団は、1965年にはじめてイギリスを訪問した。ロンドン東北方120キロほどの北海沿岸のオールドバウ(Aldeburgh)では、この国の作曲家ブリトゥン(Benjamin Britten, 1913- )が主催する音楽祭が毎年初夏に催される。1965年に開かれた第18回のフェスティヴァルは6月下旬、約半月にわたってつづいたが、そのうちオールドバウの村の教会と、ホール(Jubelee Hall)で開かれた2回の演奏会が、ハンガリーの長老ゾルタン・コダーイに捧げられ、作曲家自身ハンガリーから招かれて列席し、自作の室内楽や彼の名を冠した少女合唱団による曲目に耳を傾けた。このレコードは、その時歌われた曲目の中から彼らのイギリス滞在中にロンドンで録音されたもので、録音もコダーイの立ち会いの下で行なわれた。[…]オールドバウ音楽祭の聴衆は、他の観光客相手の音楽祭とちがって玄人筋が多いのだが、コダーイ少女合唱団の最初の一声を聞いてみなびっくりしてしまった。おそらくハンガリー中から声のいい、すぐれた素質の少女を選抜して連れて来たのだろうと想像した人も少なくなかった。だが事実は全く相違しており、コダーイ少女合唱団のメンバーはブダペストのLeövey Kláraという名称の普通の学校の、13才から18才までの少女たちなのである。指揮のイローナ・アンドール女史の指導は余程すぐれたものと思われる。すでに1949年に、この学校の少女合唱団のすぐれた歌い振りを聞いたコダーイが、自分の名を付けてもよいと認めたのだそうである。したがって、20年に近い経験をアンドール女史は持っている訳である。いうまでもなく、一人の少女は数年以上合唱団にとどまることはなく、メンバーはつねに入れ替ることになる。
少女たちは週に一回の基礎訓練と二回の合唱練習が課せられる。基礎訓練はコダーイのメトードに従う。こと点に、この合唱団の優秀性の大きな秘密がある。むろんアンドール女史の能力も大きいが、コダーイの教則本もたいへんすぐれている。これらはハンガリーで出版されたものだが最近は英語版がイギリスから出ており、日本でも容易に入手できる。[…]彼らは、練習した曲をみごとに歌うのはもちろんだが、オールドバウ・フェスティヴァルのオープニングでイギリス国歌 "God Save the Queen" を歌うことになった時、10分間で、歌詞とメロディーと、そして通常とはちがう即興的につけたハーモニーを完全におぼえてしまったという。このかわいい少女たちはまったくおそるべき能力の持ち主でもある。それはコダーイやバルトークのようなこの国のすぐれた作曲家たちが、永年にわたって子供たちの音楽教育に熱心な努力をつづけてきたことの賜物と言うべきであろう。書き写していて懐かしさで涙が出る。この文章をかつて何度読み返したことだろう。実に行き届いた解説であり、元になった英盤のクリストファー・ビショップの解説を下敷にしつつも、独自の情報も加味されているし、何よりも柴田さんのハンガリー音楽への造詣(周知のとおり彼は徳永康元と従兄弟同士である)、自ら携わった「子供のための音楽教室」以来の教育現場の体験までが滲み出た秀逸な文章なのである。柴田さんは加えてLP収録曲すべて(コダーイ全部に加え、バルトーク三曲、ブリテン二曲も)の歌詞の邦訳まで担当されている。なんと心強くも贅沢な、羨ましい時代であったことか。嗚呼、those were the days!
因みに文中に頻出する音楽祭の開催地名「オールドバウ」は正しくはオールドバラ、合唱団が十分間で暗譜したという英国国歌の「通常とはちがう」編曲とは恐らく音楽祭の主宰者ブリテン自身の手になるものだろう。
こうして四十五年ぶり(!)に覆刻されたコダーイ少女合唱団の歌声を聴くのは実に回顧的であるとともに刺戟的な体験だ。嬉しいことに、それは今なお目の醒めるように鮮やかな、清冽にして精確、可憐にして至純な絶唱なのである。セッションに立ち会い、傍らで聴いていたコダーイ翁の満足げな微笑までが目に浮かぶ。
最後に、手許にある英盤のビショップの解説から、柴田さんが紹介しなかった挿話をもうひとつ引いておこう。
この短期間の滞在で、合唱団はオールドバラでの二度の演奏会に加え、BBC・TVのための録画、ロンドンでの一回の演奏会もこなした。ハンガリー帰国を前にして彼らが最後に挑んだのは、コダーイ臨席の下でなされたキングズウェイ・ホールにおける当録音の一日だった。録音セッションの最後に、少女たちのひとりが完璧な英語で素晴らしいスピーチを行った。彼女曰く、英国滞在中のいかなる演奏会よりも合唱団はこのセッションを愉しんだ、何故ならば聴衆のことを思い煩う必要がなく、ひたすら自分たちの歓びのためだけに歌うことができたから、と。だが、少女たちは忘れていたかも知れないが、マイクロフォンは一部始終をつぶさに記録しており、私たちは彼女らの歓喜と没入を今も思い起こし、分かちあうことができるのである。まさしくそのとおり、ここにはコダーイの音楽への全き帰依と歓喜が横溢する。これこそ稀代の名演奏と呼ぶべきだろう。文字どおり「20世紀の古典」として絶対的にお薦めしたい。併録された曲目もまた素晴らしいし、とりわけウォルター・サスキンド(ワルター・ジュスキント)の指揮した二曲の演奏がことのほか優れている。
(参考資料)
■ 《コダーイ、バルトーク、ブリトゥン/現代合唱名曲選》
東芝音楽工業 AA-8060 (1967)
■ "Kodaly Girls' Choir of Budapest: Part Songs"
EMI SCX 6014 (1966)
■ "Hungarian Songs: Kodaly Girls' Choir of Budapest"
Angel 36334 (1966)*最後の米盤も欠かせない。ここでは英盤にあったブリテン二曲が割愛された代わりに、バルトークの「後悔 Bánat」、コダーイの「詩篇 第百五十番」が新たに加えられているからである。標題の "Hungarian Songs" はその故である。
ふう、ようやっと脱稿。今日が締切日当日なので、今ならギリギリ赦して貰えるかも知れない。それにしても苦心惨憺した。なんとか仕上げたが内容は我ながら凡庸な出来。最初の案を丸ごと廃棄したのが矢張りいけなかったか。いやはや、今はそんなことをほざいてる段階ぢゃない。とにかく一刻も早く先方に送ってしまわなければ。反省はそれからだ。
引き続き今日も苦吟している。おずおずと書き出しはしたものの、どうにも調子が出ないまま悩んでいる。このまま続きが書けるのかどうか、それが問題だ。
昨晩のこと、思いもよらぬ方から電話を頂戴した。永く美術出版社で編集者を務められた上甲ミドリさんである。いきなり「
『芸術新潮』、読みましたよ」と切り出され、思わず緊張で背筋が凍りついた。上甲女史は創刊間もない『美術手帖』の編集を十五年間も務め、その後もずっと同社の書籍編集の中枢におられた美術出版の大先達、斯界における伝説的人物なのである。何しろ瀧口修造、駒井哲郎、亀倉雄策、土門拳、石元康博といった面々とは昵懇の間柄、若き日の宮川淳の才能を発掘した──そう書くだけで彼女の存在の大きさが知れるだろう。
「あの、ベン・シャーン特集ですね」と恐る恐る応じると、「
とても良く書けています。思いの深さが伝わってくる文章ですね」と、淀みない口調で続けられた。ああ、良かった! お叱りの電話ではなかった!
上甲さんは小生が初めての著作『12インチのギャラリー』を美術出版社から上梓した1990年代初頭にはまだ現役でおられ、担当編集者の鈴木一男さんの上司(というかお目付役)だった。架蔵するLPレコード・ジャケットをカラーで集成するという我儘な一冊がよくぞ老舗出版社から出せたものだと今でも不思議に思うが、ともあれあの刊行があったからこそ今回のベン・シャーンの執筆依頼にも繋がったわけで、「あれが今でも自分の名刺代わりになっています」と改めて感謝申し上げた。その鈴木さんも二年前に急逝された。彼の突然の死は本当にショックでした、と申し述べると彼女も「
彼は誰よりも生真面目な人でしたから…」と流石に言葉を詰まらせた。
折角の機会なので、ひとつ質問させていただいた。今回ベン・シャーンを俄勉強した際に最も感銘を受けた一冊が、彼自身の著作『文字をめぐる愛とよろこび』だったのだが、その邦訳(美術出版社、1964)が意外にも宮川淳さんの手になるのを訝しく思ったのだ。無論それは達意の名訳だったが、いかにも意表を突く人選と感じたからである。上甲さんはすぐさま、「
あれは私の立てた企画でした」と前置きすると、「
版権を取ると迷うことなく、翻訳は宮川さんにお願いしようと考えました。なにしろ私が全幅の信頼を置いていた人でしたから」といかにも懐かしそうに回想された。
(まだ書きかけ)
トマス・ビーチャム卿の半世紀に及ぶ録音歴のなかでフレデリック・ディーリアスの楽曲は極めて重要な位置を占めている。流石に喇叭式のアクスティック録音は存在しないようだが、多彩なオーケストラをまがりなりにも収録再生できる電気吹込の時代に入ると、堰を切ったように彼のディーリアス録音が開始され、三十年後のステレオ時代に到るまで間断なく継続される。ビーチャムは終生変わることなくディーリアス音楽の忠実な使徒だったのである。
ここに第二次大戦前の録音を年代順に列記してみる。出典は Lyndon Jenkins 氏の労作 "While Spring and Summer Sang" (2005)の巻末リスト。
1927年楽園への歩み
春に初めての郭公を聞いて1928年川の夏の夜
海流*1928~29年ブリッグ・フェア1929年歌曲(イルメリンの薔薇、子守唄、黄昏の空想、屋根の上の大空は、菫、夜鶯)1934年パリ
お伽話(昔々)
間奏曲とセレナード ~「ハッサン」
「コアンガ」(幕切抜粋)
日没の歌* (リーズ音楽祭)
アラベスク* (リーズ音楽祭)
歌曲(喇叭水仙に**、彼女はかくも甘き**)1935年川の夏の夜
アパラチア* (クィーンズ・ホール演奏会実況)1936年海流
夏の庭園で
丘を越えて遙かに
「フェニモアとゲルダ」間奏曲1938年アパラチア
「イルメリン」前奏曲
「ハッサン」(幕切抜粋)
ラ・カリンダ(フェンビー編)
ラ・カリンダ ~「フロリダ」組曲*
生のミサ(抜粋)
歌曲(何処へ──秋、菫、イ=ブラジル、可愛いヴェネヴィル、黄昏の空想**)* /生前には未発表の録音
** /今なお未発表の録音(現存せず?)1906年に出逢って以来、ビーチャムは自国で不当に軽視されていたディーリアス音楽の普及に全力を傾けてきた。ディーリアスはビーチャムの指揮に全幅の信頼を寄せ、実演の際に彼がしばしば楽譜に手を加えるのを咎めなかったばかりか、「そうしてくれたお蔭で、自分の意図がずっと良く伝わった」と称讃までしている。資産家の御曹司で我儘一杯だった両者は不思議とウマが合ったのである。
"The Beecham Collection: Frederick Delius"
ディーリアス:
ブリッグ・フェア 1
春に初めての郭公を聞いて 2
楽園への歩み 3
海流 4
秋、冬 ~「北国のスケッチ」 5
日の出前の歌 6
ダンス・ラプソディ 第二番 7
トマス・ビーチャム卿指揮
交響楽団 1
ロイヤル・フィルハーモニー協会管弦楽団 2 3
バリトン/デニス・ノーブル 4
マンチェスター・ビーチャム・オペラ・コーラス 4
ロンドン交響楽団 4
ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団 5~71928年12月11日、1929年7月10日、ロンドン、ポートマン・ルームズ
11927年12月19日、ロンドン、ファイヴィ・ホール
21927年12月19~20日、ロンドン、ファイヴィ・ホール
31928年11月11日、ロンドン、ポートマン・ルームズ
4(初出)
1945年10月16日、ロンドン、アビー・ロード第一スタジオ
5~7(初出)
Somm SOMM-BEECHAM 10 (2001)
このディスクの素晴らしいのはビーチャム卿が1927~29年に手掛けた四つのディーリアス管弦楽曲録音のうち、「川の夏の夜」を除く四つまでが纏めて聴けるという点にある。しかも「海流」はビーチャム自身の判断でお蔵入りになった録音の封印が七十四年ぶり(!)に解かれた記念すべき初公開である。永らくビーチャム自身が秘蔵し、今はトマス・ビーチャム・トラストが管理するテスト盤からの覆刻で、ビーチャム卿未亡人シャーリーの許可を得た正規リリースなのだという。
遠い昔の録音ながら、その卓越ぶりは明瞭に聴き取れる。ビーチャムの語り口は常に自在で屈託がなく、時に雄弁、時に激情的ですらあるが、「ディーリアスはこう響かせるのだ」という確信に満ちた指揮ぶりは比類のないものだ。晩年のディーリアスは病に冒され殆どグレ・シュル・ロワンの自邸を離れることができず、たまさかのラジオの短波放送と数少ないディスクで自作を聴くのを数少ない愉しみにしていたというが、ビーチャムの演奏にはいつも最大限の賛辞を惜しまなかった。
あなたはなんという活力と行動力の持ち主なのか。あなた抜きでは英国の音楽界はどうなってしまうことやら。届いたばかりのあなたの最新のレコード「川の夏の夜」には大喜びしています。私の作品の三大レコードは、あなたの「郭公」「夏の夜」「楽園への歩み」です。──ディーリアスからビーチャム宛ての手紙(イェルカ夫人の代筆、1929)
そして「
海流 Sea Drift」である。勿論これが史上初の録音。合唱と独唱者を伴う二十数分の大曲(片面四分のSPの時代である)をレコーディングすること自体が大事業だったろうに、その成果を鶴の一声で没にしてしまうビーチャムは大物である。こうして耳にすると、御大はこの演奏のどこが気に入らなかったのか訝しく思える。それほどに感動的な名演なのである。あるいはデニス・ノーブルの独唱に不満だったのだろうか。やや硬い声質が気に障ったのか。今となってはわかりようがないが、この初録音が製品化されず、作曲者の許にも届かなかったのは残念でならない。
(まだ書きかけ)
新年早々というのに窮地に追い込まれている。またぞろ連載原稿の締切が差し迫っているのだ。年が改まったとはいえ、相も変わらぬ体たらく。テーマは昨年のうちから早々と決めてあったのだが、うまい切り口が見つからぬままに虚しく年を越してしまった。今ヴェランダで一服して、どうにか使えそうな書き出しの一節を思いついた。これでなんとかなるのか、ならないのか、思案していないで兎に角やってみよう。
炬燵に入っていると昔を懐かしむ感情がどっとこみ上げ、四十二年前に想いを馳せる。上京して初めてフレデリック・ディーリアスのLPを手にした日のことを。
《デリアス/管弦楽名曲集》
A面)
■ 交響詩「丘を越えてはるかに」
■ 交響詩「ブリッグの定期市」(イングランド狂詩曲)
B面)
■ 夜明け前の歌(小管弦楽のための音詩)
■ 春告げる郭公(小管弦楽のための音詩)
■ 川の上の夏の夜(小管弦楽のための音詩)
■ マルシュ・カプリス
■ そり乗り(冬の夜)
トーマス・ビーチャム指揮
ロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団
東芝音楽工業 AA-8533 (1969年8月1日発売)秋葉原の石丸電気のレコード売場であれこれ思い迷う必要はなかった。その時点でディーリアス(当時の表記は上記のように「デリアス」)のLPといえばこれ一枚きり出ていなかったからだ。1970年7月24日のことである。
本当は2月19日にTVで観たケン・ラッセル監督作品《夏の歌 Song of Summer》にゆかりの同題曲が聴きたかったのだが、簡単には見つからない。そもそもトマス・ビーチャム卿は晩年のディーリアス作品を何故か一向に録音しなかったのである。やっと聴けた本盤はどちらかというと若書き中心のラインナップだったから正直なところ拍子抜けした。冒頭の「丘を越えて遙かに」や「ブリッグ・フェア」も、ちょっと聴いただけではなんだか捉えどころのない印象だった。「春に郭公の初音を聴いて」や「川の夏の夜」は確かにチャーミングば佳曲だったが、どうせなら「楽園への歩み」を聴きたかった。尤もビーチャムは残念ながらこの曲のステレオ録音を残していない。
若い頃からディーリアス最大の擁護者をもって任じていたビーチャム卿には生涯にわたり膨大なディーリアス録音があるが、晩年のステレオ時代LP三枚分のセッションを行った。そのうち生前に発売許可が出た二枚のLPから抜粋したのが、上記のアンソロジー・アルバムである。そこに歿後に出た「日没の歌」を加えたのが、ビーチャムによるディーリアスの全ステレオ録音。そのすべてがCDで聴ける。
《ディーリアス名演集 I/丘を越えて遙かに》
ディーリアス:
交響詩「丘を越えて遙かに」──幻想序曲*
そり乗り(冬の夜)**
ブリッグの定期市──イギリス狂詩曲***
「フロリダ」組曲(ビーチャム編)****
マルシュ・カプリス***
サー・トーマス・ビーチャム指揮
ロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団1957年4月2日、10月7日*、1956年11月5日**、10月31日***、
1956年11月10、19、21、22日、12月14日****、
ロンドン、アビー・ロード・ステュディオズ
東芝EMI CE33-5248 (1989)
《ディーリアス名演集 II/日没の歌》
ディーリアス:
ダンス・ラプソディー 第二番*
夏の夕べ(ビーチャム編)**
春初めてのかっこうを聞いて**
河の上の夏の夜***
夜明け前の歌* ****
歌劇『フェニモアとゲルダ』間奏曲****
歌劇『イルメリン』前奏曲**
日没の歌*****
サー・トーマス・ビーチャム指揮
ロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団
コントラルト/モーリーン・フォレスター*****
バリトン/ジョン・キャメロン*****
ビーチャム合唱協会*****1956年11月7日*、10月31日**、1957年3月28日***、
1956年11月5日****、1957年4月1日*****、
ロンドン、アビー・ロード・ステュディオズ
東芝EMI CE33-5249 (1989)
ビーチャム卿がステレオで遺したディーリアス録音は以上ですべて。セッションは1956年晩秋(10月末~)と翌57年春の二回に分け集中的に組まれている。合唱入りの大曲「日没の歌」は僅か一日で収録されたものの、ビーチャム翁の意に沿わずにお蔵入り(そういう例は多かった)。歿後かなり経って陽の目を見たものだ。
通して聴いてみると改めて痛感するのは、ビーチャムのディーリアスに対する屈託のないアプローチ。一見すると無造作にさらりと流すのだが、それでいてどんな細部にも馥郁たる情緒が漂うところが絶品。融通無碍、ノンシャランなようでいて、精妙なニュアンスに富んでいる。まるで自作自演さながら闊達で生命力に溢れ、自在な音楽の運びに聴き惚れてしまう。どの曲も素晴らしくいい。とりわけ「ブリッグ・フェア」はまるで魔法だ。「フロリダ」組曲のようなやや散漫な若書きもビーチャムの手にかかると稀代の名曲のように聴こえる。天下一品とはこのことだろう。
ご当人は不本意な出来だったという「日没の歌」も、一体全体どこがお気に召さなかったのか。自ら初演のタクトをとっただけのことはある、自信と共感と愛着に裏打ちされた空前の名演なのである。
幸いなことに、これらのCDは今でも同じ曲順の輸入盤二枚組でたやすく手に入る(EMI "20th Century Classics")。ディーリアンなら必携のアルバム。
昨年末に家人がネットで註文した電気炬燵が宅配便で届けられた。ああ、炬燵なんて久しく目にしていない。練馬から千葉に引っ越すときに手放してしまって以来だから、かれこれ十七年ぶりになろうか。
梱包を解いてみると、発熱部分が平べったく、お馴染の金網状に出張った構造ではないのに驚く。これで暖まれるのか。早速ものは試しと組み立て炬燵布団を掛け、スウィッチを入れる。発光せず発熱のみという家人の説明にも吃驚。やがてじんわり熱が伝わってきて、「ああ炬燵はいいなあ」と思わず独りごちる。TVを点け、焼き餅を頬張り、蜜柑を剥き、煎餅を齧る。これぞ正しい正月の過ごし方であるぞよ。
あまりにも悲惨な一年が過ぎ、新しいこの年はいかなる日々になることやら。少しは光明が兆すのか。兎にも角にも2012年が始まった。
去年が
パーシー・グレインジャー歿後五十年、今年は
フレデリック・ディーリアス生誕百五十年である。何故か小生のなかで両作曲家はいつも地続きの国のようにひと繋がりに想起される。その音楽を知ったのが同じ一本の映画を通してだったからなのか。なので今夜はふたりを聴きながら安らかな寝りに就くことにしよう。
"Delius -- Grainger"
ディーリアス:
真夏の歌
クレイグ・デューにて
水上で夏の夜を歌うために(二曲)
荘厳な光は城壁に落ちて(テニソン卿)
春の到来
陽光の歌
森を抜けて
グレインジャー:
ブリッグ・フェア
ジャングルの朝の歌(キップリング)
ダニー・ディーヴァー(キップリング)
ピオラ狩(キップリング)
スカイ・ボート・ソング
シャロー・ブラウン
アイルランド、デリー州の調べ
オーストラリア高地の歌
六人の公爵が釣りに出た
穴掘りに出た豚がいた(クリスマスの日の朝)
行方知れずのご婦人が見つかった
サイモン・ハルジー指揮
バーミンガム市交響楽団(CBSO)合唱団1987年6月19~21日、バーミンガム、セント・ポールズ聖堂
Conifer CDCF 162 (1988)
おやすみなさい。どうか良い初夢が見られますよう。