いやはや、またしても清水の舞台から千尋の谷に突き落とされ、全身打撲で瀕死の大怪我を負ったような気分だ。当分は立ち上がることができない。
届いてみると、なるほど途轍もない大著である。堂々たるニ巻本で立派な箱入り。両手で抱え持つのが辛いほどの重量である。試みに箱に入ったままの状態で測ってみると、縦34.5、横27.8、厚さが 11.3 cm もある。
たかが個人の分際でこれを架蔵するなんて身の程知らず、どうかしている。でも架蔵しないというのも余程どうかしている。
Детская иллюстрированная книга в истории России 1881-1939
Владимир Ильич студия Самолет
Москва: Улей
2009
「ロシア絵本の歴史 1881-1939」とでも訳せばいいのだろうか。
ボーナスと無縁な身には分不相応と知りつつも、どうしても手にしない訳にはいかなかった。なにしろこれは空前(にして絶後?)の破天荒な出版である。帝政末期からスターリン粛清期まで、半世紀に及ぶロシア絵本の興亡を約500冊の絵本で辿る壮大なアンソロジー画集。図版数は1800、収録画家は190人に及ぶ。
わが「幻のロシア絵本 1920-30年代」展から五年。パリの「ロシア児童書 1917-1945」展から十二年。あるいは偉大なる先達である島多代さんの『ソビエトの絵本 1920-1930』刊行から数えると十七年の歳月が流れている。
本国の露西亜で遂に決定版が出たか、という感慨がじわじわと拡がる。
流石というほかない。これには脱帽だ。
ロシア絵本の嚆矢であるエリザヴェータ・ビョーム(エリーザベト・ベーム)の影絵絵本(1881)から20世紀初頭の「ミール・イスクストヴァ(芸術世界)」派に拠ったビリービン、ベヌア、ナールブト、ミトローヒンらの高踏的な民族主義絵本へ、さらには革命期に試みられた「セヴォードニャ(今日)」グループによるリノカットの手作り絵本、あるいはリシツキー、シャガールの土臭いユダヤ民話絵本へ。20年代初頭には、同じリシツキーの手になる瞠目すべきスプレマチズム絵本や、ヴフテマス(高等芸術技術工房)在学中のデイネカらによる斬新な試作絵本が登場する。
歴史的な目配りが周到に行き届いているだけでなく、紹介される作品数がなにしろ半端でない。しかもその殆どが今では目にする機会の乏しい稀覯本ばかり。こうして「第一部」と「第二部」の頁をめくっているだけで立ち眩みがしてくる。
(まだ書きかけ)
ベルリンの壁が崩壊してから二十年。NHKのTVでも立て続けにドキュメンタリーを放映しているので、感慨を新たにした方も少なくなかろう。
今日はそれを記念し回顧する国際シンポジウムをじっくり聴講した。一昨日、忘れがたいチュルリョーニス演奏を披露したランズベルギス氏も、実はこの催しの来賓として招かれ四度目の来日を果たしたのである。
青山学院大学公開講演会
「冷戦終焉20年 鉄のカーテン解体から、ベルリンの壁崩壊へ」
13:00~ 青山学院大学 総合研究所ビル12階大会議室
出席者/
ヴィータウタス・ランズベルギス (音楽学者、元リトアニア国家元首、欧州議会議員)
ヴェラ・ランズフェルト (作家、元ドイツ国会議員)
ヤドヴィガ・スタニスキス (元ポーランド「連帯」指導者、ワルシャワ大学教授)
アンドラーシュ・オプラトカ (ハンガリー、ジュラ・アンドラーシュ大学教授、ウィーン大学教授) ほか
1989年はフランス革命二百年にあたっていた。この記念すべき年に、誰もが予想だにしなかった激震が全ヨーロッパを揺れ動かしたのである。
ゴルバチョフ改革のあおりを喰らってポーランド、ハンガリーの共産党独裁政権が相次いで瓦解し、ハンガリーのネーメト新政権が果敢にも中立国オーストリアとの国境を開放、往来の自由化に踏み切った。「鉄のカーテン」の一角が綻んだ瞬間である。この機を逃さず8月19日、「汎ヨーロッパ・ピクニック」と称して東ドイツ民衆がどっとハンガリーに押し寄せ、ここからオーストリア経由で西ドイツへと脱出した。
十日後の8月29日、ソ連支配下のバルト三国ではリトアニアのヴィリニュスからエストニアのタリンまで六百キロを、二百万人が手に手を繋ぐ「人間の鎖」が敢行された。独裁者二人が秘密裏にバルト三国のソ連併合を認めた独ソ不可侵条約締結五十周年を期してなされた抗議行動である。
ホーネッカー独裁政権にはもはや東ドイツ全土で頻発する民主化運動を抑える力はなく、10月18日には退陣を余儀なくされた。こうなるともう止まらない。11月9日の東西ドイツ間通行認可による「ベルリンの壁」の無効化、さらには壁そのものの崩壊へと、時代は雪崩を打つように、すべてを呑み込む怒濤さながらに変転した。
そして、11月16日からはチェコスロヴァキアの「ビロード革命」が始まる。
今日はその当事者たちが顔を揃え、強大な国家権力に非暴力で立ち向かい、無血革命を成し遂げた事の次第を、それぞれの体験と立場から生き生きと回顧した。
(まだ書きかけ)
今日こそは図書館で調べ物と念じていたのに起きられない。天気が上乗なのになんという体たらくだろうか。
懸案だった用件が昨日ようやく一段落したからだろうか、どっと疲れが出て、全身がだるくて動くと辛い。
そんなわけで近所に散歩に出たほかは概ね寝たきりで過ごした怠慢な一日。
この機会をずっと密かに待ち望んできた。
ヴィータウタス・ランズベルギスが来日して、チュルリョーニスのピアノ曲を弾く。これを聴き逃しては生きている甲斐がない。
1992年に池袋のセゾン美術館で「チュルリョーニス展」が開催されたとき、新生リトアニアの初代国家元首ランズベルギスは初めて日本の地を踏んだ。それ以来、何度か来日の機会があり、折りに触れて小さなスペースでリサイタルを催したというが、愚かしいことに小生はそのすべてを聴き逃してしまった。
今回のランズベルギス氏の来日は国際シンポジウムへの出席が主たる目的だそうだが、忙しい日程を割いて「チュルリョーニスの時代」と題するレクチャー・コンサートを催す。十月初めにそう知らされてから、ずっとカレンダーを眺めながらこの日が来るのを指折り数えて待っていたのである。
19:00~
ヒルサイドプラザ(東京・代官山)
ヴィータウタス・ランズベルギス
レクチャー・コンサート
チュルリョーニスの時代 ČIURLIONIS. Time and Content
第一部
チュルリョーニスのピアノ曲
演奏/ヴィータウタス・ランズベルギス
1. 6音列 a-d-f-b-es-ges の主題によるプレリュード ニ短調 (VL 256)
2. 聖霊降臨祭のための音楽 (VL 337a)
3. “Sefaa Esec” の主題によるピアノのための変奏曲 (VL 258)
4-7. リトアニア民謡より 4曲
風は吹いたか (VL 274)
少女はでかけた (VL 278)
おお、森よ、森よ (VL 276)
お母さん、もう少し眠らせて (VL 281)
8. プレリュード ト長調 (VL 338)
9. 連作風景「海」より 第二曲 (VL 317b)
10. 秋 (VL 264)
ランズベルギスの奏でるチュルリョーニスは誰にも真似のできないものだ。譜面では単純素朴にみえる小曲が魔法のように変幻自在、溢れんばかりの慈愛や、人懐こい微笑、底知れぬ孤愁、そしてとりわけ、悠久の自然をまざまざと実感させる。生きた音楽とはこのことだ。ゆかりなくも宮沢賢治の名がふと脳裏を過ぎる。
どちらかといえば耳馴染みのない楽曲が続くプログラムだったが、ランズベルギスの手にかかると、どれもが紛れもない天才の所産として響く。ひとつとして無意味な音はない。万感が胸に迫るのを禁じ得ない。
一曲ごとに異なったチュルリョーニスの絵画作品がスライド投影された。興趣をそそる試みだ。それぞれの絵と楽曲とは一対一で対応するものではないにもかかわらず、ジャンルを超えた芸術家の類い稀な「目に見える音楽」「耳で聞く風景」のありようが自ずと看取された。
第二部
対談/ヴィータウタス・ランズベルギス × 沼野充義
(まだ書きかけ)
プロコフィエフの二つのヴァイオリン協奏曲はいずれもこのジャンルにおける傑作として、今なお多くのヴァイオリニストによって繰り返し愛奏され、実演の機会も録音も枚挙に暇がない。
五曲あるピアノ協奏曲は曲によって演奏頻度の差こそあるものの、少なくとも第一、第三、第五番の三曲はすでに20世紀の古典としてレパートリーの仲間入りを果たしているとみてよかろう。
それらと比して、理不尽なほどに不遇な扱いを受けているのが彼のチェロ協奏曲である。そんな曲が果たしてあったか、と訝しく思う人すら少なくないのではないか。
実を云うと、プロコフィエフは生涯でチェロと管弦楽のための協奏作品を四つも書き遺している。でもそれらをすべて聴いたという人は殆どいない。
まずはその「知られざる」四曲を列挙してみよう。
チェロ協奏曲 第一番 ホ短調 作品58 (1934~38年作曲、1939年初演)
チェロ協奏曲 第二番 作品番号なし (1950~52年作曲、1952年初演)
チェロと管弦楽のための交響協奏曲 作品125 (1952年作曲、1954年初演)
チェロ小協奏曲 ト短調 作品132 (1952年作曲・未完、1956/60年初演)
(まだ書き出し)
麻布十番で用事を済ませたら帰宅がすっかり遅くなった。
空腹と疲労とで歩くのがやっとという有様だ。駅から家までの道の途中でベンチに腰掛けて一服。ふと東の空を見上げると、オリオンの三つ星が縦一直線に並んで昇ってくるのが見えた。もう冬がすぐそこまで来ている。
朝から冷たい雨が降りしきる。原稿執筆の下調べに東京まで出向く予定だったのに気勢を削がれた形だ。ずるずる出発を躊躇っていたら、怠け心が湧いてきてそのまま在宅してしまう。
仕方ないので寝転んで音楽を聴く。珍しくカラヤンの古い実況録音をかけてみる。
1970年春、カラヤン&ベルリン・フィルが三度目の来日を果たした。
事前に発表された演目は以下のとおりだった。会場はすべて上野の東京文化会館。チケット代はS=6,000、A=5,000、B=4,000、C=3,000、D=2,000。
5月16日(土) ブラームス: 交響曲 第三番、第二番
5月17日(日) オネゲル: 交響曲 第三番、ドヴォルザーク: 交響曲 第八番
5月20日(水) シューマン: 交響曲 第四番、R・シュトラウス: 交響詩「ツァラトゥストラはかく語りき」
5月21日(木) ベルリオーズ: 幻想交響曲、ラヴェル: 亡き王女のためのパヴァーヌ、組曲「ダフニスとクロエ」 第二番
いかにもカラヤンらしい全方位型のヴァーサタイルなプログラムだ。独墺ものに加え、東欧とフランスの近代への目配りもあってなんとも心憎いバランス。いつも定番のベートーヴェンが見当たらないのは直前の大阪万博で全交響曲を振るため、意図的に東京での曲目から外したのであろう。
こうして書き写していても心が躍る。どれもがカラヤンが自家薬籠中の楽曲。満を持した、しかも意欲的な選曲なのだ。今だったら連日欠かさず通い詰めるところだが、懐具合が寂しい高校生に購入できるのはどれか一日だけ。苦渋の選択である。
音楽を聴き始めてまだ日の浅い田舎者の十七歳は、熾烈なチケット争奪戦に参戦すべく、発売日に早起きして東京・有楽町まで出向き、長蛇の列に加わった。もちろん生まれて初めての体験である。1970年4月10日のことだ。
当日の日記メモを引こう。
四月十日 金曜日。
学校をサボるのは気が引けたが、今日はまる一日を東京で過ごした。
朝5:20ごろ家を出て、6:40ごろ日生(劇場=前売場所)着。建物のなかに泊まり込んだ人たちがそこらじゅうにいる。ゴロゴロ転がっている感じだ。
到着した順に番号札を貰う。点呼のために必要なのだという。僕の番号は「442」。それだけの人が集まっているのだから驚きだ。このあと何度か点呼があって、そのつど返事しないと番号が取り消されてしまう。
七時点呼。八時に再点呼。八時半にようやく係の人から整理券を手渡される。発売時刻は十時なのだ。
ただ待っていても退屈なので、「443」番の人としばらく雑談。どの日を選べばいいのか意見を言いあう。それでもまだ時間があるので、銀座のあたりをひとりでぶらぶらと歩き回る。
十時に戻ってくると、発売窓口にはすでに長蛇の列。それから延々と待たされ、十二時過ぎまで並んでやっと自分の番が回ってきた。いちばん安いD券(2,000-)はもうとっくに売り切れていて、僕は自分の希望する日が売れてしまわないかと、内心ヒヤヒヤしていた。
ここで言う「自分の希望する日」とは最終日の21日、ベルリオーズ+ラヴェルのプロだった。前もって秘かにそう心に決めていたのだ。
列に並んだ周囲の人たちは概ねブラームスか、シューマン&シュトラウスの日を希望していた。オーストリア人指揮者がベルリンのオーケストラを振るのだから、本場物のドイツ音楽に如くはないというわけだ。「カラヤンのリヒャルト・シュトラウスは絶品だヨ」としたり顔で吹聴する通人もいた。それでも自分は「オール・フレンチ・プロ」に固執していたのだ。どうせ一日しか聴けないのなら、それ以外あり得ない、と。我ながら不思議だが、よほど当時からひねくれていたのだろう。
(まだ書きかけ)
新宿の中古レコード店で買物をしたら珍しい覆刻盤CDが只で付いてきた。元になった50年代前半のLPの盤質が芳しくないのが残念だが、鳴っている音楽そのものはきわめて上質だ。
〈ジネット・ドワイヤン ピアノ・リサイタル〉
ショパン:
バラード 第一、二、三、四番
円舞曲 第五、十四、一、六番
シャブリエ:
アルバムの一葉
気紛れなブーレ
サン=サーンス:
アレグロ・アッパシオナート 作品70-1
トッカータ 作品111-6
ピアノ/ジネット・ドワイヤン
1952年6月(バラード)、53年10月(シャブリエ)
ディスクユニオン Classics-MO 2010 (2009)
ジネット・ドワイヤン(Ginette Doyen 1921-2002)はメンデルスゾーンの「無言歌」全曲盤がかつて話題になったことがある程度で、実兄のジャン・ドワイヤンほどの知名度はない。パリ音楽院の名教授ラザール=レヴィの教え子で、安川加壽子のクラスメートだったそうだ。
今日では絶えて聴くことのできないフランスならではの高雅なショパンもさることながら、水を得た魚さながらシャブリエが目の覚めるような名演だ。サン=サーンスの華麗絢爛ぶりもいい。
それにしても些か興醒めなほどに音の悪い覆刻盤である。まあ無料で頂戴したのだからとやかく文句は云えないが。
ジネット・ドワイヤンにはこのほかイベールの「物語」抜粋や、夫君ジャン・フルニエと組んだフローラン・シュミットのヴァイオリン・ソナタの正規CDがどこかにあったはずだ。いずれ別室の棚で探してみよう。
東京へ出る用事があったので、渋谷駅からニ十分ほど歩いて渋谷区立松濤美術館で「生誕120年 野島康三 肖像の核心」展を覗いてみた。今日が最終日というので、見逃すには惜しい気がしたのである。
1910年前後から1950年代にまで及ぶ写真家・野島康三(1889-1964)の全仕事を通観する絶好の機会である。
微妙な諧調を捉えた初期の風景、油絵のように重厚な20年代の肖像、そして「瞬間の定着」「フレーム意識」など写真ならではの表現を確立した30年代の人物・裸婦の連作。どれもが揺るぎない強度と完成度を備えていて心底震撼させられる。写真の近代をまるごと体現したかのような驚嘆すべき仕事ぶりだ。
もうひとつ特筆に値するのは本展開催にあわせ美術館が刊行したカタログ。いやこれはカタログの範疇を大きく逸脱する。『野島康三 作品と資料集』と題されたとおり、同館が所蔵する潤沢な野島関連資料のすべて、全写真はもちろんのこと、私的なアルバムや手紙、周辺の写真家の作品まで収録した労作である。
野島は写真家としての本業に加え、画廊「兜屋画堂」の開設、雑誌『光画』の刊行、写真館と賃貸アパートを兼ねた九段の「野々宮ビル」の経営、とその活動は実に多岐にわたっている。富本憲吉、中原悌二郎、岸田劉生、中川一政、柳宗悦らとの交遊も見逃せない。岡田桑三、原弘らのデザイン集団「東方社」最後の所在地が野島の「野々宮ビル」だったという事実もなにやら示唆的だ。
厖大な資料に懇切な解題を添えた渾身の一冊は汲めども尽きぬ泉さながら。今後も繰り返し紐解くことになろう。この刊行こそ美術館の鑑だ。困難なご時勢に鮮やかな一矢を報いた松濤美術館の労を多としたい。
荒れ模様の一日。驟雨と強風に見舞われ、散歩も儘ならない。
ようやく夕方に鎮まったので、買物を兼ねて外に出たら、驚くほどの夕焼けが眺められた。空一面が朱に染まり、オレンジ色の夕映えが眩く西方に照り輝く。四時四十分からほんの数分間の壮麗な天空ショー。
折角なのでもう一枚かけよう。名高い演奏なのに、どういう訳かこれまで耳にした憶えがない。
〈ヤッシャ・ハイフェッツ オリジナル・ジャケット・コレクション③〉
メンデルスゾーン: ヴァイオリン協奏曲
プロコフィエフ: ヴァイオリン協奏曲 第二番
ヴァイオリン/ヤッシャ・ハイフェッツ
シャルル・ミュンシュ指揮
ボストン交響楽団
1959年2月23、25日&24日、ボストン・シンフォニー・ホール
BMGジャパン BVCC-37053 (1999)
ハイフェッツはクーセヴィツキー&ボストン交響楽団とともにプロコフィエフの第二協奏曲を1937年12月17日に初めて演奏し、その三日後に世界初録音してこの曲の「あるべき姿」の規範を世に知らしめた。30年代のプロコフィエフの「バッハ回帰」の新古典主義をキッパリと清潔なボウイングとくっきりした輪郭で描き出す。無用な表情を排したザッハリヒな「クール・ビューティ」。その姿勢は二十二年後の再録音でいっそう明確に打ち出されている。シャルル・ミュンシュのサポートも微塵の曖昧さも残さぬ単刀直入のスタイルでぴたりと寄り添う。
実のところミュンシュもこの協奏曲の演奏史に古く深い関わりをもつ。1935年12月1日、フランスのヴァイオリニスト、ロベール・ソエタンス(Robert Soëtens 正確な発音は不詳。「ソエタン」「ソータン」「ソタンス」とも)がマドリードでエンリケ・アルボス指揮のもと同曲を初演したのち、暫く独占演奏権をもつソエタンスは欧州各地を初演して回るのだが、そのパリ初演のタクトをとったのが若き日のシャルル・ミュンシュだったのである(1936年2月16日)。今日ミュンシュの名をプロコフィエフと結びつけて想起する人は尠なかろうが、彼は紛れもなくプロコフィエフの同時代人だった。
スヴャトスラフ・リヒテルは毎年クリスマスにはモスクワの自宅でささやかなパーティを催し、決まってバッハの「クリスマス・オラトリオ」のレコードをかけるのを慣わしにしていたという。「冒頭でティンパニが連打されると、もうそれだけで心が躍るんだ」と相好を崩したそうな。
年末になると、いつもこの微笑ましい挿話を思い出して、普段は滅多に聴かないこの大曲が無性に恋しくなってくる。
まだクリスマスにはだいぶ間があるのだが、昨日こんなディスクを手にしたので、またしてもリヒテルの言葉が甦ってきた。
ヨハン・ゼバスティアン・バッハ:
ミサ・ブレヴィス BWV233*
カンタータ 第214番 「太鼓よ轟け、喇叭よ響け」**
フィリップ・ヘレヴェッヘ指揮*
コレギウム・ヴォカーレ・ヘント
ソプラノ/シュビラ・リュベンス
アルト/ステファニー・ハウツェール
バス/トーマス・バウアー
トン・コープマン指揮**
アムステルダム・バロック管弦楽団・合唱団
ソプラノ/デボラ・ヨーク
アルト/アネッテ・マルカート
テノール/イェルク・デュルミュラー
バス/クラウス・メルテンス2003年6月8日、7日、メルク修道院聖堂(メルク修道院国際バロック週間 実況)
ORF CD 365 (2004)
「小ミサ曲」でのヘレヴェッヘの演奏を聴いていると、曲は違うのだが昨年五月に倫敦のセント・ジョンズ・スミス・スクエア聖堂で耳にしたコレギウム・ヴォカーレの清冽な実演を否応なく思い出す(
→ここ)。あのときは合唱パートはSATBそれぞれわずか三人ずつだったと記憶するが、この録音では四人ずつだった由。
次のカンタータは一転して開放的で強靭なコープマンの指揮。曲はこれこそお目当ての「太鼓よ轟け、喇叭よ響け」である。
周知のとおり、バッハの「クリスマス・オラトリオ」は(他の声楽大作も同断だが)既存のざまざまな自作を寄せ集めたパスティーシュであり、この「太鼓よ轟け…」はその最も重要な「元ネタ」なのである。「クリスマス・オラトリオ」の冒頭曲はこのカンタータの第一曲のそのまんまの流用であり、歌詞こそ変えてあるが、同じようにティンパニが轟き、トランペットが響く。博識のリヒテルは勿論この事実を知っていただろうが。
なので、これを聴くと気分は殆どクリスマスなのだ。
断続的ながら四十年以上も音楽を聴いていると、思わず隔世の感という言葉が口をついて出ることがある。作曲家の栄枯盛衰に関してである。
今でこそドビュッシーとメシアンを繋ぐ作曲家として知る人ぞ知るという程度には存在感の増したシャルル・ケックランも、1970年代初頭には殆ど誰ひとり気に留めないマイナーな人物に過ぎなかった。試みにたまたま手許にある古いレコード目録(『レコード芸術』1973年1月号付録「作曲家別 洋楽レコード目録」)を紐解いてみると、「
ケックラン(シャルル)」の項目にはわずか二点が記載されるのみである。
交響詩「レ・バンダール=ログ」
ブーレーズ=BBC響
東芝 エンジェル AA 8014 (1967/4)
ジャン・ハーローの墓碑 Op. 163
ロンデックス(Sax)、プュイグ=ロジェ(Pf) ほか
東芝 エンジェル AA 8703 (1970/10)
懐かしい。この二枚のアルバムは当時から架蔵し、今も棚のどこかに眠っている筈だ。前者はケックランが偏愛する小説『ジャングル・ブック』に取材した一連の管弦楽曲のひとつであるが、上の目録の演奏家記載は間違っていて、アンタル・ドラーティ指揮が正しい。間違いといえば後者の「ジャン・ハーローの墓碑」という曲名表記もあんまりだ。勿論これは Epitaphe de Jean Harlow すなわち僅か26歳の若さで病死したハリウッドのヴァンプ女優
ジーン・ハーロウへの追悼曲なのだが、何も知らぬレコード会社はこのように誤記していたのである(この佳曲については少し書いたことがある。
→「ケックランと女優たち」)。作品番号も正しくは「164」。
懐旧譚に耽ったのには訳がある。こんな奇妙な海賊盤CDを安価で見つけたのだ。
フォーレ: 組曲『ペレアスとメリザンド』
ケックラン: 「星空のほうへ」作品129
ドビュッシー: 夜想曲*
ゾルターン・ペシュコ指揮
ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
エルンスト・ゼンフ女声合唱団*1989年9月26日、ベルリン音楽祭(実況)
Kapellmeister KMS 228 (2008)
ハンガリー指揮者がベルリン・フィルに客演してオール・フランス・プログラムを振る。それだけでも珍しいのだが、この演奏会は長く銘記さるに値しよう。
何を隠そうこの晩に奏された管弦楽曲「星空のほうへ Vers la Voûte étoilée」はこれが世界初演だったのである。1923年から十年間をかけて作曲したのに、一度たりとも演奏されることなく埋もれてしまった。完成後なんと半世紀も顧みられなかったところに生前・歿後を問わずケックランの不遇ぶりが浮き彫りにされよう。
「星空のほうへ」はケックランが耽読したという19世紀の天文学者(というか天文ライター)カミーユ・フラマリオンの名著『大衆天文学』に触発された楽曲だそうだ(因みにこのフラマリオンの著作は各国で広く読まれ、かのリトアニアのチュルリョーニスも愛読したという)。悠久無辺の宇宙を彷彿とさせる静謐で神秘的な音楽である。
(まだ聴きかけ)
身近に接した人だからかえって書きにくい。その晩年をつぶさに知悉していたとしても、全生涯となれば話は別。評伝をまとめるのは至難の業だ。ましてその最後の十年がそれ以前の生涯と途轍もなくかけ離れていたとしたら…
津野海太郎
したくないことはしない 植草甚一の青春
新潮社
2009
著者は云うまでもなく、植草甚一の一連の本を晶文社で手掛けた担当編集者その人である。ブームの仕掛人といってもよい。晩年の十二年間、最も間近にその謦咳に触れる機会を得た。にもかかわらず、ではなく、だからこそ、書き辛かったに違いない。これを上梓するのに三十年の歳月が経過する必要があったのである。
標題に「青春」の文字があるように、本書は津野さんにとっても未知の植草甚一の少年期と青年期を掘り起こす試みである。植草自身が述懐する「コンプレックス」の正体を突き止め、生家の没落や学業の挫折などが絡み合った「学歴コンプレックス」が彼のなかに根深く巣喰っていたと推察する。
彼の同時代芸術への飽くなき探索の出発点に、若い頃に傾倒した村山知義の芸術論集『現代の芸術と未来の芸術』(1924)があったという指摘には目から鱗。
映画界に身を置いたのは偶然の行きがかりからで、実は「新しい海外小説の優れた『読み手』」というありようこそが植草の本領だったと喝破するあたりは本書の白眉だろう。それが職業として成立しなかったところにどうやら植草の長きにわたる不遇と不機嫌の原因があったらしい。
小林信彦や常盤新平が夙に書き残している「理不尽なまでに怒りっぽく喧嘩早い、厄介な中年ライター」としての植草甚一が、最後の最後に「物わかりのよい、人好きのするファンキー爺さん」へと鮮やかに変身する件りは、読んでいて胸のつかえがすうっとおりる気がした。
誰よりも植草甚一を間近に知る筆者が敢えて「見知らぬ他人」の評伝を書くようなクールな文体を採ったこと、それでもなお滲み出る愛情の大きさにうたれる一冊。それにしても、津野海太郎=平野甲賀コンビの「植草本」が新潮社から刊行されてしまうところに、晶文社の陥った苦境を否応なく垣間見てしまう。
久しぶりにスクリーンに目が釘づけになった。いったい何が起こるのだろうか。緊張して目が離せないのだ。これが七十一歳の老人の十七年ぶりの監督作品だとは信じがたい瑞々しさ。しかも1967年に出国(亡命?)して以来というから、実に四十数年ぶりに故国に帰還して母国語で撮った映画なのだという。
イエジー・スコリモフスキ監督作品
アンナと過ごした4日間 Cztery noce z Anną
2008
監督・脚本・製作/イェジ・スコリモフスキ
脚本/エヴァ・ピャスコフスカ
撮影/アダム・シコラ
音楽/ミハウ・ロレンツ
出演/アルトゥル・ステランコ、キンガ・プレイス、イェジ・ペドロヴィチ、バルバラ・コウォジェイスカ ほかスコリモフスキといえばなんといっても『早春 Deep End』(1971)だ。スウィンギング・ロンドンを舞台に、純粋無垢の青春の物悲しくも滑稽なありさまを鮮やかに切り取った秀作である(ようやく昨年に観る機会を得た。
→ここ)。
新作の舞台はポーランドのうら寂れた寒村、孤独な中年男が若い看護婦に密かな恋情を抱く。それも殆ど犯罪者すれすれの物狂おしさでだ。誰もが気づくであろう、これはあの年上のジェーン・アッシャーに夢中になるジョン・モルダー・ブラウンが転生した三十七年後の姿なのだ。時代も状況設定も全く異なるが、そうとしか思えない。
アンジェイ・ワイダばかりがポーランド映画ぢゃない。ロマン・ポランスキのかつての盟友スコリモフスキ、今なお健在なり。老匠のスクリーンへの鮮やかな帰還を心から慶びたい。上映は渋谷(というか青山)のイメージフォーラム。
東京からの帰途、西船橋での乗換時間に駅構内の輸入食材店を覗いたら、店頭は早くもクリスマス一色だ。
パッケージにサンタクロースや樅の木をあしらった詰め合わせ菓子。チョコレート付きのアドヴェント・カレンダー。ドライフルーツ入りのパネットーネ。人型をした生姜味のビスケット。見ているだけで年の暮れになったようで、いささか急かされる気分。とはいえまだ十一月の中旬なのだから、いくらなんでも買うには早過ぎる、今日はちょっと観るだけにしよう。
葡萄酒の棚を物色していて、各種スパークリング・ワインの脇にずんぐりしたドイツ・ワインの壜にふと目がとまった。ラベルに Glühwein の髭文字が躍っている。
うわあ懐かしいなあ。あれは1996年だったか、展覧会準備のためミュンヘンを訪れた折りのことだ。旧市街のマリーエン広場にはクリスマス市が立っていて、十一月末の週末とあって、クリスマス飾りを売る屋台がずらりと並び、朝からたいへんな人だかりだった。ちょっと酉の市の雰囲気に似ていなくもない。
あちこちの店を冷やかして可愛らしい小物を手にしたりしていたら、石畳を踏みしめる足下がじんわりと冷えてきた。
ふと前をみると、もうもうと湯気の立つ屋台がある。甘やかな芳しい香りがぷうんと漂ってきた。同行のドイツ通の西村勇晴さんが「グリューヴァインだ、ドイツの冬の名物、ホット・ワインだよ」と懇切に教えてくれた。
(まだ書きかけ)
今日は「セサミ・ストリート誕生四十周年」の当日であるらしい。その証拠にgoogleのタイトル・ページにはビッグバード、クッキーモンスター、アーニー&バート、グルーヴァー、カウント・フォン・カウントらが勢揃いしている。
昨日(9日)はまたベルリンの壁崩壊から二十周年でもあったらしい。そこで今夕からNHK・BS1でドキュメンタリー特集が始まった。
BS世界のドキュメンタリー
シリーズ ベルリンの壁崩壊 20年
(口上)
第二次世界大戦後、東西ドイツを分断していたベルリンの壁崩壊から今年で20年。そこで、「BS世界のドキュメンタリー」では3週間にわたり、ドイツ分断の悲劇と壁崩壊、さらには東西冷戦の終結に至るまでのさまざまな出来事、そして壁崩壊から20年の今を描くドキュメンタリーをまとめて放送します。
第1週は、東西分断による東ドイツの人びとの葛藤を描いた作品をお届けします。
☆
第一回 「壁の時代を生きて」(前編)。
ベルリンの壁の崩壊を見つめた市民の心には、さまざまな思いが駆けめぐっていた。東西ドイツの分断、秘密警察による監視、市民運動家の投獄、そして命がけの越境。ベルリンの壁によって人々はどのような運命をたどり、それは崩壊とともにどのように変わったのか?東ドイツ秘密警察の元メンバーや、体制と闘い命の危険にさらされた市民などへの取材を通し、「壁の時代」の真実を、丹念な取材によってひもといていく。
第二次大戦終結からベルリンの分割統治、東西冷戦と61年の「壁」建設。否応なく進む歴史の歯車と、そこに巻き込まれた名もない庶民を並行して描くところに、今回のシリーズの特色がある。東ベルリンのサーカス団員、秘密警察に囚われたかつての被害者、トンネルを伝って命からがら西側へ逃れた市民。
興味津々のドキュメンタリー。まだ第一回目なので予断を許さないが、これまでにない視点が頗る新鮮で期待できそう。
先週からずっとかかりきりだった小冊子の編集作業が終了し、印刷所の入稿まで済ませたのでホッと一息。原稿がなかなか出揃わず、一時はどうなることかとヤキモキした。僅か十六頁の薄冊ながら、内容的には一冊の書籍並に充実しているので、遣り甲斐のある作業だった。ちょっと執筆もした。
開放感に包まれて夕方の神楽坂を歩く。約束の時刻にちょうどいい頃合いである。
一年半にわたって執筆した月刊女性誌の連載「旅するアート」が終了した。そこで編集担当の小島弥生さんが打ち上げ会と称して労いの席を用意して下さるという。同じ雑誌の直前ページで映画評を担当された大森さわこさんもお見えになるという。その大森さんの連載も同じく終了なのだ。
六時半。奥まった場所にあるのでちょっと迷いつつ「芝蘭」という四川料理店に辿りつく。小島さんは先着、ほどなく大森さんも到着。さっそく三人で乾杯し、次々に供される美味しい料理に舌鼓を打つ。
大森さんにお目にかかるのは1992年以来だから十七年ぶりということになる。たしかケン・ラッセルの当時の新作『ボンデージ』公開時に大森さんのトークがあり、その折りにちょうど上梓したばかりの拙著『12インチのギャラリー』を図々しく進呈した。もちろんその終章がケン・ラッセルに因んだ記事だったからなのだが、嬉しいことに大森さんはそのことを記憶されていて、同じ雑誌に連載している誼みから拙ブログを訪問して下さった。「いつかぜひ逢いましょう」と言い交わしているうちに、雑誌連載が打ち切りになってしまい、その慰労の席でようやく再会が叶ったという次第だ。
(まだ書きかけ)
体調がかなり回復してきたので、今日も東京まで往還したのだが、どうも無駄足に終わってしまったようだ。なので帰宅しても気分が晴れない。
鎮静剤代わりにフォーレを聴こう。
フォーレ:
レクイエム(1893年復元版)
小ミサ曲*
ジャン・フルネ指揮
東京少年少女合唱隊
日本フォーレ協会編成による男声合唱
日本フォーレ協会編成による器楽アンサンブル
アンサンブル・コンセールC*
1998年11月6、7日、東京・三鷹、国際基督教大学礼拝堂
カメラータトウキョウ Camerata 25CM-563 (1999)
フォーレのレクイエムは昔からどうも苦手だ。美しいと思わないではないのだが、清楚な素顔美人が妙に派手な厚化粧したみたいな印象が否めないからだ。なので近年ようやく復元されたという原典版(現行の楽章が出揃った最初の版)を好んで聴く。女性ソロはボーイ・ソプラノが歌うし、管弦楽も室内楽に近い小編成。
同曲を自家薬籠中のものとし、過去に三度録音したフルネが最後に挑んだのがこの原典版演奏。日本人たちは健闘している、といいたいのだが、合唱がお世辞にも巧いとはいえない。惜しいことだ。
むしろフィルアップの「ミサ・ブレヴィス」が掬すべき名演。声楽アンサンブルもこちらのほうが優れている。ソプラノ・ソロが頭抜けて素晴らしい、と思ったら、なんと野々下由香里さんが歌っている。
今年も慌しく過ぎてもう十一月。そろそろ来年のカレンダーが気になる季節である。文具店や大型書店には疾うに特設コーナーができていることだろう。
東京子ども図書館のHPを覗いたら、「絵本の歴史カレンダー」の2010年版がもう発売になっている。そこで今回は奮発して十部まとめて購入。なにしろ今回のテーマは「
ソヴィエト時代のロシア絵本」なのである(
→ここ)。
「絵本の歴史カレンダー」も回を重ねてはや十三回目。初回以来ずっとその企画・解説を務めている島多代さんは周知のとおり世界に先駆け戦前のロシア絵本を発掘・再評価した功績者である。今回いよいよ彼女の秀逸なコレクションから十二点が毎月のカレンダーを飾る。その島さんの講演があるというので、今日ははるばる中野区江原町まで馳せ参じたという次第だ。
島さんは長くニューヨークに住み古今の絵本や児童文学と間近に接するうち、たまたま一群の古いロシア絵本(彼女の呼び方では「ソヴィエト絵本」)と出逢って魅せられたのだという。
1985年に帰国後も島さんの旺盛な関心は持続し、89年チューリヒのスイス児童文学館で催された「ソ連の絵本」展にも足を運んだ。そのときブックレットに掲載されていた論考と、自らのコレクション、さらには米国の盟友ジェイムズ・フレイザーのコレクションを組みあわせ、1920年代のロシア絵本に関する世界初のモノグラフを刊行した。『ソビエトの絵本 1920-1930』(リブロポート)がそれである。
(まだ書きかけ)
思い返せば小生がトランジスタ・ラジオから流れてきたマルタ・アルゲリッヒ(と当時は云い慣わした)のピアノに魅了されたのは今から四十年前の今時分だったはずだ。曲目は忘れもしないプロコフィエフの第三ピアノ協奏曲。
英語に galvanize という動詞がある。「電流を通す」「電流で刺激する」という意味なのだが、そのときの体験はまさにそうとしか言いようがない。電撃を喰らったように金縛りになった。あれほどまで衝撃的な出会いは一生のうち数度あるかないか。
田舎の高校二年生はその週末に上京し、小遣いをはたいて秋葉原の石丸電気で一枚のLPを手にする。1969年10月14日、と当時のメモ帖に記載がある。
プロコフィエフ: ピアノ協奏曲 第三番 ハ長調 作品26
ラヴェル: ピアノ協奏曲 ト長調
ピアノ/マルタ・アルゲリッヒ
クラウディオ・アバード指揮
ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
1967年5~6月、ベルリン、イェズス・クリストゥス聖堂
グラモフォン SLGM-1438 (1968) 1,800-
その手帖によると小生がLPを購入するのはこれが四枚目。それ以前にはグラズノーフのバレエ音楽『四季』(アンセルメ指揮)、オネゲルの第二交響曲(パイヤール指揮)、チャイコフスキーの『胡桃割り人形』全曲(ロジェストヴェンスキー指揮)を手にしている。随分と変わった初心者であることよ。
そうだ、今夜は久しぶりにこれを聴こう、と思ったのも束の間、我が家にはそのとき入手した四十年前のLPしかなく、CDでは架蔵していないことに思い至る。Alas! 仕方がない、もうひとつ別の演奏、三十年後のライヴ録音にしよう。
"Music Festival Argerich's Meeting Point in Beppu '98"
ラヴェル: マ・メール・ロワ(ピアノ連弾版)*
プロコフィエフ: ピアノ協奏曲 第三番
(アンコール)
ヒナステラ: 粋な娘の踊り ~「アルゼンチン舞曲集」
ピアノ/マルタ・アルヘリッチ
鄭明勳 指揮&第二ピアノ*
桐朋学園オーケストラ
1998年11月30日、別府、ビーコンプラザフィルハーモニアホール(実況)
別府アルゲリッチ音楽祭実行委員会 AMF-199801 (2001)
快刀乱麻の演奏とはこのことだ。生で接したら圧倒されたに決まっているが、こうしてCDになってみるとさすがに粗い。四十年前に繰り返し聴き、実演でも耳にした若き日の演奏(1970年1月26日、読売日響定期、若杉弘指揮)に比べると、例えば二楽章中間部のリリカルな味わいや繊細な粒だちが随分と減衰しているのは否めない。いかにも弾き飛ばしたという印象なのだ。
桐朋の管弦楽団も健闘しているが、冒頭のクラリネットのソロを聴いただけで、ああカール・ライスターではない、ベルリン・フィルぢゃないんだ(当たり前だ)と実感。それほどまでに上述の1967年録音が体に沁みついてしまっている。やはりこれをCDで常備しておかねば話にならないな。わが生涯の一枚だもの。
家が散らかっている。家人からはなんとかしてくれと苦情が尽きない。元凶はいうまでもなく本とレコードだ。それから紙資料のあれやこれや。自分でも収拾がつかなくなっている。音楽、美術、映画、演劇、舞踊、児童文化と関心が多岐にわたるものだから、何がなんだかわからないほどの資料が溢れかえっている。
「何もかも自分で集めようという考え方がおかしいんぢゃない? そもそも図書館があるぢゃないの! どうしてわざわざ収集しなけりゃならないの?」
御説まことに御尤も。ところがそうは問屋が卸さないのである。
目下せっせと執筆しているバレエ・リュスを例にとろうか。
日本人のバレエ・リュス体験を語るうえで1914年にロンドンでニジンスキーを実見し、バレエ・リュスの絢爛たる舞台に総合芸術のなんたるかを痛感した大田黒元雄は、帰国後の1917年に自らの出版社「音楽と文学社」から『露西亜舞踊』を刊行した。萩原朔太郎が一読して夢心地になったという「魅惑の一冊」、世界的にも最も早い時期に刊行されたバレエ・リュスのモノグラフのひとつであり、翌18年に来日したプロコフィエフは東京で大田黒からこれを差し出されて驚嘆し、「ぜひディアギレフに送ってやるといい」とその連絡先を伝えたという。
これだけ重要な書目なのに、実物が図書館にない。国立国会図書館にも都立中央図書館にも日本近代音楽館にも民音音楽資料館にも架蔵されていないのである。
歴とした大人の本がそうであるのだから、児童書や児童向け雑誌となると、もうこれは戦前に刊行されたすべてが稀覯本なのだといっても過言ではない。それらは当時の子供たちにボロボロになるまで愛読された揚句、役目を終えて廃棄された。公共の図書館もそれらの収集には全く不熱心だった。質はともかく量的には世界に誇る隆盛を誇ったわがニッポンの児童文化は殆ど一顧だにされなかったのである。
先年、戦前のロシア絵本の展覧会を急遽やることになって、カタログに執筆する必要から1930年代初頭の児童雑誌を調べてみようと思いたった。ロシア絵本からの同時代の日本への影響の痕跡を探るためだ。
手始めにその当時を代表する絵雑誌である『コドモノクニ』(東京社)と『子供之友』(婦人之友社)を通覧しようとしてすぐさま躓いた。上野の国際子ども図書館(国立国会図書館の支部館)は建物が立派なだけでまるで頼りにならない。欠号だらけ、どころか、揃っている年度など皆無という体たらく。これでは「国立」の冠が泣く、というか、もともとそういうニッポン国なのだから期待した当方こそ愚かだったのである。結局このときは多摩や駒場や横浜を駆けずり廻って、数年分をどうにかこうにか通覧してなんとか事なきを得た。
小部数のマイナーな刊行物ならいざ知らず、最も人口に膾炙しているはずの児童雑誌がこうなのだからあとは推して知るべしだろう。この状況は言ってみれば『白樺』や『ホトトギス』や『太陽』や『文藝春秋』や『改造』を参照せずに近代文芸史を語るようなもので、これだからこの国にはいつまで経っても実証的な絵本史・児童文化史研究が出現しないのだと、嘆息とともに納得した。
戦前の日本におけるロシア絵本の受容・紹介史において最も目覚ましい媒体は、大阪朝日新聞社が運営する児童文化振興組織「アサヒ・コドモの会」の月刊機関誌『コドモの本』におけるロシア絵本の翻訳紹介である。
この未知の雑誌にロシア絵本の連載記事があることをご教示くださったのは古書店「アルカディア書房」の矢下さん。「ほらこれですよ」とさっそく書棚から取り出して見せてくださった。その稀少な数冊を即座に手に入れたのは勿論である(『幻のロシア絵本 1920~30年代』カタログに収録したのがそれ)。即座にいくつかの目ぼしい図書館にあたってみたが、大新聞社が発行した雑誌であるにもかかわらず、これが殆ど架蔵されていないのである。
こういうとき頼りになるのは大阪府立国際児童文学館である。それはこの『コドモの本』が大阪で刊行された雑誌だからという理由からではない。
ここは知る人ぞ知る日本の近世・近代の児童書の日本最大のアーカイヴ。なにしろ七十万という膨大な資料を収蔵しており、しかも普通の図書館が廃棄してしまう「箱」「カヴァー」「帯」「雑誌附録」まできちんと保存している。増刷時に装丁が変わればそれもちゃんと収集するという徹底ぶり。
上述の展覧会でも、その『コドモの本』をはじめとする稀少な雑誌をいろいろ拝借して展示した。だから一方ならぬ恩義を感じているのである。
その大阪府立国際児童文学館が本年限りで廃館に追い込まれる。
(まだ書きかけ)
google で検索しようとしたら、昨日はビッグバードの足、今日はクッキーモンスターの顔があしらわれている。「
セサミストリート40周年」とある。
ウィキペディアでちょっと調べてみると、確かに米国で放送開始されたのは1969年11月10日なのだという。ヴェトナム戦争がいよいよ泥沼の様相を呈し、沖縄返還が合意された頃のことだ。当方は埼玉の田舎の高校二年生でトランジスタラジオから流れてきたマルタ・アルヘリッチのプロコフィエフに痺れていた時分。
日本での放映は1971年の夏休みが最初だそうだが、これは知らない。翌72年4月から週一回の放送がスタートした。この新番組についてはえらく熱心に視聴した憶えがある。子供向けなのに吹替なしの英語番組というのが珍しかったし(われわれはウォルト・ディズニーが「流暢な日本語で」しゃべる番組で育った世代である)、小学高学年の妹のため、という口実で、小生自身がけっこう熱中して観た。埼玉の実家にはこのときのテキストブックがずらり揃っているはずだ。
初期の胡麻横丁の住人たちは好青年然としたボブ、ドラッグストアの店主で好々爺のフーパーさん、若い黒人夫妻のスーザンとゴードン。それにビッグバードやクッキーモンスター、塵缶に棲むオスカー、剽軽な蛙のカーミット、あのボケとツッコミの漫才コンビみたいなアーニー&バートなどの「マペット」たちが絡む。
ボブの本名はボブ・マグラスといって、60年代には不二家のコマーシャルソングなどを日本語で歌っていたから誰もが知っていた。ミッチ・ミラー合唱団出身で、甘い声とマスクで人気者だったのだ。フーパーさんに扮したのはウィル・リーという役者さんで、どこにでもいそうな気さくな爺という風貌が好もしかったな(やがて亡くなられたと思う)。スーザンとゴードンに扮したふたりの俳優の名がどうしても思い出せないが、これまた普通に街で出くわしそうな気のいい黒人という感じがよく出ていた。
人間たちが善良そのもので些かステレオタイプなのに対し、人形たちはみな一癖も二癖もあり、癇癪持ちだったり偏屈だったり頓馬だったり気弱だったりするのが面白かった。楽天的でちょっと間抜けなアーニー(平たい玉葱顔)と心配症でせわしないバート(長い人参顔)の掛け合いのコーナーがいつも愉しみだった。
こうした人形のユニークなキャラクター設定は、不世出の人形遣いジム・ヘンソン自身の発想に拠るところが大きかったはずだ。たしかアーニーやカーミット蛙の操演と声はヘンソン自身が務めていたはずである。いっぽう、バートやクッキーモンスターの操演と声を担当していたのは、ヘンソンの盟友フランク・オズだったと思う。
ほんの一、二分の寸劇やヴィデオ・クリップ、アニメが次々に連続するスピーディーな展開も、当時は観ていて斬新に思えたものだ。「おかあさんといっしょ」のほんわかのんびりムードとはまるで違う。しかも随所にオリジナルの歌が散りばめてある。のちにカーペンターズが唄ってスタンダードナンバー化した「ソング」はこの番組から誕生したのは周知のとおり。ボブが美声を聴かせた「
近所の人たち People in Your Neighborhood」もなかなかの佳曲だったし、お風呂好きなアーニーがゴム製のアヒルと無邪気に戯れる「
ラバーダッキーの唄 Rubber Duckie」はなんだか20年代ミュージカルの挿入歌みたいな懐かしい匂いがした。
そうそう、今ふと思い出したのだが、途轍もなく著名なゲストが「たまたま近所を通り掛かったので」といったカジュアルな風情で登場し、マペットと一緒に唄うというのも「セサミストリート」の呼び物だった。憶えている限りでも、
スティーヴィー・ワンダーやレイ・チャールズが登場していたし、小生は観逃していたが
キャブ・キャロウェイ(!)が「ハイ・デ・ホー」を唄ったこともあるらしい。
子供向け番組にいい歳した大学生がうつつを抜かしたのも当然であろう。
体調を崩して臥せっている。寝床で音楽を聴くのだけが愉しみだ。
先日来ずっとベルリンの30年代に思いを馳せていたら、こんなディスクが目に入った。といっても純然たるアメリカのオペラである。
クルト・ワイル=作曲
エルマー・ライス=台本
ラングストン・ヒューズ=歌詞
街の風景(ストリート・シーン)
ローズ・モーラン=ドロシー・サーロフ
アンナ・モーラン=ポリーナ・ストスカ
サム・カプラン=ブライアン・サリヴァン ほか
アイズラー・ソロモン指揮
ハリウッド・ボウル管弦楽団・合唱団
1949年8月21日、ハリウッド、ハリウッド・ボウル(実況)
Naxos 8.120885 (2009)
原作はエルマー・ライスの同名の戯曲(1929)。戦前から日本でも知られ、翻訳もあったし、上演もされた。手許にある「築地座」第四回公演チラシから粗筋を引こう。
資本の都……紐育
その名とは余りに隔絶したマンハツタン街のアパートメントハウス。其処には生活苦に喘ぎながら人生航路を辿り合ふ悲惨な縮図があつた。
強烈な酒精の魅力に引かれて家庭に親しまぬモラン、温情に餓えつゝ道ならぬ恋愛に陥る妻、近代的聡明さを以つて一家を救ふべく職業戦線に立つロオズ、かうした一角を囲り、眠りきれぬ酷暑の夜風を慕つて門前のアーク燈下にうごめくアパートの人々。彼等は何を語り、何を求め、何を祈るのであろう?
銃声…………殺人が叫ばれて一夜は明けた。母と別れ、警官の手に引かれ行く父を見送つたロオズは恋人サムに言ふのである。
──人間というものは自分自身の外、誰にも頼つてはいけないと思ふわ。あたしこの世の中で何よりも愛を望んでゐるの。でも愛する事と頼る事とは別よ。ね、サム、あたし達はもつと齢をとり、もつと賢くなつてお互を考へて見ませうよ。ね、それまで自分を信じて待ちませう。──
彼女は新らしい生活を求めて紐育を去るのである。黙して語らぬ我が家と、都会の騒音を後に残して………。
1932(昭和七)年の東京で早くもこの芝居が演じられたとは感慨深い。因みにそのときの配役は、アル中の夫に背いて愛人の許へ走る妻アンナ=東山千栄子、その娘ロオズ=田村秋子、ロオズの恋人サム=汐見洋。ほかに杉村春子、東屋三郎、友田恭助らが出演している。
それから十五年後の紐育広小路の演劇街。
1947年1月9日、ブロードウェイのアデルフィ劇場でクルト・ワイルの最新作の幕が開いた。エルマー・ライスの『街の風景』をそのまま音楽劇に仕立てた作品である。しかも誇りかに「アン・アメリカン・オペラ」と銘打たれている。ミュージカルぢゃない、『ポーギーとベス』のように、これは正真正銘のオペラなのだ。
台本はライス自身、歌詞は若きラングストン・ヒューズ(!)という盤石の布陣。いつだってワイルは実力ある人材としか組まない。なにしろブレヒトの座付作曲家だった御仁なのだ。ピットにはワイルの直弟子にして盟友、亡命先のパリでもニューヨークでも新作の指揮には馳せ参じてきた指揮者モーリス・アブラヴァネルが陣取る。
このとき鳴った音は概ね想像できる。オリジナル・キャストによる貴重なレコーディングが残されているからだ。
クルト・ワイル:
街の風景(ストリート・シーン)
ローズ・モーラン=アン・ジェフリーズ
アンナ・モーラン=ポリーナ・ストスカ
サム・カプラン=ブライアン・サリヴァン ほか
モーリス・アブラヴァネル指揮
管弦楽団・合唱団
1947年、ニューヨーク
CBS MK 44668 (1990)
(まだ書きかけ)
昨夜は短時間だがスコールのような驟雨に見舞われた。そのあと大気が入れ替わったのか急速に冷え込み、深夜にヴェランダへ出たら寒気で震えがきた。
一夜明けるといかにも文化の日らしい雲ひとつない晴天。真白き富士の峰がくっきり見える。ただし空気はひんやり。秋もいよいよ深まった。
今日はこのまま在宅して編集作業。薄冊ながら内容が多岐にわたるので気が抜けない。しかも急ぎだ。
いよいよ秋も深まった。切羽詰まっていた原稿もどうやら仕上がりそうなので、ちょっと油断して、季節に相応しいしんみりしたヴォーカルでも聴こうか。
先日、波多野睦美+高橋悠治の絶妙なワイルとアイスラーを耳にしたのに触発され、こんなアルバムを手にしてみた。
"Berlin: Songs of Love and War/ Peace and Exile"
ブレヒト=アイスラー: Den kleinen Radioapparat
ブレヒト=アイスラー: Deutsche Miserere
ブレヒト=アイスラー: Ostersonntag
ブレヒト=ワイル: Das Lied vom Surabaya-Johnny ~『ハッピー・エンド』
ブルーノ・バルツ=ミヒャエル・ヤリー: Davon geht die Welt nicht unter
マルツェルス・シッファー=ミッシャ・スポリアンスキー: Maskulinum-Femininum
ブレヒト=アイスラー: Ich hab dich ausgetragen ~「四つの労働者の母の歌」
ブレヒト=デッサウ: Bitten der Kinder
ホランダー: Ich Bin von Kopf bis Fuss auf Liebe Eingestellt ~『嘆きの天使』
ヨハンネス・ベッヒャー=アイスラー: Die alten Weisen ~「新ドイツ民謡」
ブレヒト=アイスラー: Als ich dich in meinem Trug ~「四つの労働者の母の歌」
ブレヒト=ワイル: Moon of Alabama ~『マハゴニー市の興亡』
ブレヒト=アイスラー: Hotelzimmer 1942
ヨハンネス・ベッヒャー=アイスラー: Die Welt verndern wir ~「新ドイツ民謡」
ブレヒト=アイスラー: Als ich dich gebar ~「四つの労働者の母の歌」
ブレヒト=アイスラー: 「ハリウッド悲歌」 Nr. 7
ブレヒト=ワイル: Der Bilbao-Song ~『ハッピー・エンド』
ブレヒト=アイスラー: Mein Sohn was immer auch aus dir Werde ~「四つの労働者の母の歌」
ブレヒト=アイスラー: Uber Den Selbstmord
テオ・ブレックマン=クルト・シュヴィッタース: I Build My Time
ハンス・ライプ=ノルベルト・シュルツェ: Lili Marleen
テオ・ブレックマン=クルト・シュヴィッタース: Schmidt-Lied
歌唱/テオ・ブレックマン
編曲・ピアノ/安田芙充央
ヴァイオリン/トッド・レノルズ、コートニー・オーランドー
ヴィオラ/ケイレブ・バーハンズ
チェロ/ウェンディ・サッター
2007年4月14~16日、ニューヨーク、ブルックリン・ブリッジ音楽録音スタジオ
Winter & Winter 910 138-2 (2007)
演奏者にはまるで心当たりなく、演目の取り合わせの妙だけを頼りに手に取ったらこれが大吉と出た。
ジャズ・ミュージシャンにありがちな恣意的なアレンジ物かと思いきやさにあらず、原曲とそれが生まれた時代を彷彿とさせる繊細巧緻な編曲にちょっと驚かされる。弦楽四重奏の響きに導かれ、退廃と尖鋭とがない混ぜになって甘い毒のよう、背中にぞくっと戦慄が走る。そこにブレックマンのなんとも名状しがたい玄妙なヴォーカルが乗って唄う。飄々としていながら、鋭さを内包したかのような不思議な声だ。
ややもすると無味乾燥になるアイスラーの無愛想な旋律がここまで魅惑的に聴こえるとは驚きだ。ブレヒト=ワイルの「アラバマの月」「スラバヤ・ジョニー」「ビルバオ・ゾング」の飄然たるムードもいいが、スポリアンスキーの苦い小唄(これは同性愛の歌ならん?)や、クルト・シュヴィッタースのメルツ詞にブレックマン自ら附曲した二曲にも捨てがたい魅力がある。
殆どの曲のアレンジとピアノを務めるのはFumio Yasuda すなわち安田芙充央なる御仁。欧米と日本を股にかける作編曲家・ピアニストだそうで、小生と同年輩の方とおぼしい。この人はよほどセンスが宜しいのではなかろうか。「あの時代」へのクールな共感というか、批評的な郷愁というか、徒に回顧的になることなく、見事に30年代のエッセンスを摑んでいる。端倪すべからざる才能である。
一夜明けて十一月の始まり。
目覚めた寝床で昨日からの宿題の小論考のどうやら「正しい」らしい書き出しを思いつく。これでなんとかなりそうだ。そうでないと困るのであるが。
気分を一新するべく、起き抜けに音楽をかける。月の始まりの景気づけの一曲だ。
ヤナーチェク:
シンフォニエッタ
オットー・クレンペラー指揮
コンセルトヘバウ管弦楽団
1951年1月11日、アムステルダム、コンセルトヘバウ(実況)
Archiphon ARC 101 (1992)
クレンペラーとヤナーチェクとは意表を突く組み合わせにみえるかも知れないがそうではない。ヤナーチェクと親交のあった若き日のクレンペラーは、歌劇『イェヌーファ』を逸早く取り上げ、『カーチャ・カバノヴァー』をドイツ初演するなど、その紹介に努めた。ベルリンのクロル歌劇場時代も『死者の家から』を上演している。
この「シンフォニエッタ」についても、1926年12月というから、プラハでヴァーツラフ・タリフが初演してからわずか半年後に、ヴィースバーデンで逸早くドイツ初演を行っているのである。翌27年3月にニューヨークでアメリカ初演を振ったのもクレンペラー、9月にはクロル歌劇場でベルリン初演を果たしている。「シンフォニエッタ」は同時代音楽の旗手時代のクレンペラーにとって因縁浅からぬ曲、というか、むしろ自家薬籠中の十八番だったのではなかろうか。
それから四半世紀が経って、なお同時代音楽(シェーンベルク、ストラヴィンスキー、ヒンデミット、トッホ、ショスタコーヴィチ)をレパートリーに含めていたクレンペラーが確信に満ちた懐の深いヤナーチェクを聴かせる。値千金の演奏とはこのことだ。
これでスッキリ気分転換。
引き続き、同じCDからその前日に演奏されたバルトークも聴いてみよう。
バルトーク(シェルイ補筆):
ヴィオラ協奏曲
ヴィオラ/ウィリアム・プリムローズ
オットー・クレンペラー指揮
コンセルトヘバウ管弦楽団
1951年1月10日、アムステルダム、コンセルトヘバウ(実況)
最後の数小節を残してほぼ仕上がっていた第三ピアノ協奏曲とは対照的に、ヴィオラ協奏曲はバルトークの歿した時点ではオーケストレーションもなされぬ混乱した未定稿にすぎなかった。
門人のティボール・シェルイが草稿を整理してやっとの思いで完成させたのが1949年、この年の12月2日、発注者プリムローズの独奏、アンタル・ドラーティの指揮で世界初演された。クレンペラーとの共演はそのほぼ一年後。プリムローズが各地を巡演した初演行脚の一環としてなされた(やはり同年のエルネスト・ブール指揮によるパリ初演の実況録音も残されている)。
さらにもう一曲、これもこれまでありそうでなかったレパートリー。
シェーンベルク:
浄夜
オットー・クレンペラー指揮
コンセルトヘバウ管弦楽団
1955年7月7日、アムステルダム、コンセルトヘバウ(実況)
1920年代すでにこの「浄夜」や交響詩「ペレアスとメリザンド」を演奏会で取り上げていたのに、クレンペラーにシェーンベルクの正規録音は皆無。この実況録音も放送局のテープはとっくに消去されてしまい、熱心なファンが自宅でエアチェック録音したものという。ともあれ現存唯一のクレンペラーのシェーンベルク。
驚愕した。途轍もない没入ぶりに心底たじろぐ。もう恥も外聞もあらばこそという、怒涛のような感情移入。あの冷徹そうなクレンペラーにもこんな一面があったのだ。
うわあ、あと半時間で十月が終わってしまう。月末までに書こうと思った小原稿が滞ったままなのが気掛かり。明日の朝にでもすっきり仕上がるといいのだが。
別にそうと決めたわけではないが、ついつい毎月末になってしまうネット上の連載「バレエ・リュスと日本人たち」の第六回目がアップされた(
→これ)。数日前まで苦吟していた原稿が小ざっぱり綺麗に形を整えられ、公共の場に掲げられる。印刷媒体ではとてもこうは事が運ぶまい。どれだけの読者の目に触れるのか定かではないが、読みたい人の許には確実に届く。なんという便利な時代になったのだろう。
それにしても今回の執筆はひどく手古摺ってしまった。そもそも山田耕筰のバレエ・リュス体験を紹介し終えるはずがどうにも締め括れず、結局もう一回分この続きを書かねばならないと途中で判明し、後半部分を全面的に書き直す羽目に陥った。それだけ山田の体験が豊饒だったからなのだが、この調子だとさらに詳細な記録が残されている小山内薫、島崎藤村、大田黒元雄らの回にどれだけの紙数を費やさねばならぬか、今から心配になってきた。
掲載の場を提供して下さっている古書日月堂店主は寛大にも「いくら長くなっても構わないから心おきなくお書きなさい」と勧めてくれる。こうなったらもう行けるところまでとことん行ってしまおう。
執筆やら私事やらに追われて、重要な展覧会が始まっているのになかなか出掛けられない。それではならじと一念発起して電車を乗り継いで井の頭線の永福町へ。初めて訪れる場所なので地図を見い見い十五分ほど歩くと、住宅地のなかに佇む杉並区立郷土博物館に到着。
江戸時代の立派な長屋門をくぐると小ぢんまりした建物が姿を現す。ここで10月17日から必見の展覧会がひっそりと催されている。
「大田黒元雄の足跡 西洋音楽への水先案内人」がそれだ。副題に「没後30年特別展」とある。1979年に八十六歳で長逝した大田黒の業績を偲ぶ恰好の機会であり、プロコフィエフとの交友やバレエ・リュスの紹介など、彼の先駆的な仕事に興味を抱く小生には見逃せない展示なのである。
展示室は手狭だが、内容は精選されていて裨益するところが少なくない。ご遺族から提供されたとおぼしい貴重な写真(複写)の数々。そのなかに1918年8月1日、大森の大田黒邸へ別れの挨拶に訪れたプロコフィエフが大田黒夫妻と一緒に写した記念写真も含まれている。倫敦留学前に親戚と撮った写真などはこれが初公開ではなかろうか。
百冊を優に超える大田黒の著作のうち主要なものが並んでいるのも見逃せない。しかも展示の多くは大田黒自身の旧蔵本なのがなにより貴重である(日本近代音楽館所蔵)。大正期に大森の自邸で催したサロン・コンサート(ピアノの夕べ)やレコード・コンサート(蓄音機近代樂音樂會)のプログラムが見られるのも嬉しい。ささやかな試みだったが、そこではドビュッシーが、シベリウスが、パーシー・グレインジャーが日本で初めて鳴り響いたのである。
大田黒は趣味で写真にも手を染めていた。資生堂の福原兄弟とともに「寫眞藝術」同人として1920年代初頭に瞠目すべき風景連作を撮ったことは今や写真史にも隠れなき功績である。その稀少なオリジナル・プリントのあれこれを久しぶりに拝めたのもこよなき眼福だった。
会期中にあと何度か再訪する心づもりなので、今日はほんの下見の気分。それでも一時間近く展示室にいて飽かず眺めた。
偉大なるかな大田黒。自由に生き、旺盛に学び、流暢に書き、あり余る知識を惜しげもなく披歴した。もしも彼がいなかったならば今日のわれわれは存在しないも同然だ。もはやそのことに誰も気づきはしないのだけれども。
こういう演奏会を聴いてしまうと、もう何も書けなくなる。あまりの凄さ、あまりの素晴らしさに黙るほかなくなるのだ。
波多野睦美 歌曲の変容シリーズ 第5回
ゆめのよる
~サティ、モンポウ、アイスラー、高橋悠治の歌曲の夜~
王子ホール
19:00~
メゾソプラノ/波多野睦美
ピアノ/高橋悠治
モンポウ: 魂を歌う
プーランク: ギターに寄せて
アントネッロ・デ・カゼルタ: 完璧の美
プーランク: 平和を祈れ
サティ: ジュ・トゥ・ヴー
モンポウ: 三つの遊び唄
モンポウ: 君の上には花ばかり/夕べ同じ風が/君は海のよう ~「夢との闘い」
リリー・ブーランジェ: 帰還
ワイル: ユーカリ
*
アイスラー: 老子亡命途上での道徳経成立の物語
サティ: 三つのジムノペディ
サティ: 帽子屋、ダフェネオ
高橋悠治: ゆめのよる/鳥は空を求めている/おやすみなさい
(アンコール)
ウォーロック: 子守唄
高橋悠治: むすびの歌
なんとも凝った取り合わせの選曲。フランス語、ドイツ語、カタルーニャ語、日本語が入り混じる。モンポウやアイスラーは苦手な作曲家なのでちょっと尻ごみしたのだが、おふたりが登場し、お辞儀もそこそこにいきなりモンポウの序奏が始まるや一気に惹き込まれた。これはちょっと普通ぢゃない。それからの一時間五十分、呪縛されたまま腰が抜けてしまい休憩になっても椅子から立てなかった。
演奏会タイトルの「ゆめのよる」とは谷川俊太郎の詩の題名で、矢野顕子の依頼で高橋悠治がこれに附曲した。その曲は後半終わり近くに出てくるが、リサイタル全体のコンセプトはどうやら夢に仮託した「ここではない、どこかへの旅」にあるらしい。プログラム冊子に波多野さん自身が寄せた小文にこう記される。
牛の背にゆられながら国境を越えてゆく老子
長い年月の放浪を終えて 故郷へ帰還する船に乗るオデュッセウス
この世の果てにある希望の島ユーカリへ流れ着く 夢
国境を越える老子とはブレヒトの死後そのバラッドにアイスラーが作曲した長い歌曲を指すし、オデュッセウスの帰還の旅は夭折したリリー・ブーランジェの歌の主題、理想郷ユーカリとは言うまでもなくクルト・ワイル亡命時代のシャンソンだ。旅、流離、放浪、希望と憧憬、そして達観。波多野さんはさらに「眠り」「夢」「夜」「波」というキーワードを挙げている。
プログラム全体を点綴し統合するフェデリコ・モンポウとエリック・サティは高橋悠治が愛惜措くあたわざる作曲家だし、ブレヒトを媒介にしたワイル、アイスラーも高橋にとって因縁のある先達だ。高橋=波多野ならではの絶妙な選曲と言うべきだろう。
どの曲がどうだったと詳述することはすまい。波多野さんのフランス語にディクシオンに難癖をつけても始まらない。歌手として絶頂期にある彼女が心から唄いたい歌を唄う。それだけで充分だろう。それも高橋悠治の伴奏でだ。なんたる贅沢。
「伴奏」という言葉がこれほど憚られるピアノもなかろう。鋭い耳で把握され、深い洞察力とともに紡ぎ出される高橋のピアノ演奏は、聴く者をただならぬ体験へといざなう。「意味のない音なんて、ひとつも存在しない」。漫然と聴き流すことなぞできやしない。どれもが稀有な美しさを備えた音楽に聴こえる。なんというモンポウ、なんというリリー・ブーランジェ、なんというアイスラーだろう! 世には未知の名作がこんなにも埋もれているのか、という感慨がこみ上げる。
後半いささか長大で難渋なアイスラーのあと、サティの「三つのジムノペディ」で波多野さんが譜めくり役に廻る趣向が面白い。そのあとの二曲の歌曲も含め、高橋の呟くような、噛み締めるような独特なサティが聴けたのが嬉しかった。そしてそのままの気分で、自作自演の三曲へ。「ゆめのよる」は創唱者である矢野顕子の歌いっぷりとは全く別の曲の趣。波多野さんのも悪くないのだけれど。
アンコールで英語の歌になったとき、波多野さんの歌唱には長旅を終えて帰郷したかのような安堵感が漲ったようにみえた。彼女の鍾愛の一曲であるらしいピーター・ウォーロックの「ララバイ」。ウォーロックを高橋悠治で聴けるなんてもう二度と体験できないだろう。
今夜の選曲とほぼ軌を一にした新しいアルバムが出たという。会場でも販売していたが、生の感興を忘れたくないので、今日は遠慮した。でもいずれきっと聴きたくなるに決まっているのだが。